明日何が起こるかはわからない♪
noteでは、ステュディオスな人たちとの輪が広がればいい、そんな思いで綴っています。
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明日、起こることは何も決まっていないのでは?
こう考える方がよさそうな気がします。
10月9日が来る。今日は火曜日だから明日は水曜日が来る。これらは決まっているじゃないか。当たり前です。これは起こることではありません。明日という日のことを9日、水曜日ということにしよう、23時59分59秒から1秒経った時にみながそう呼ぶことにしよう。いわゆる形式知です。
明日、会社で会議が行われることは決まっている!?
本当にそうでしょうか。上役の都合や取引先とのトラブルで開催されない、自分だけが参加できない、実際にこういうことが起こらないとは誰もが言い切れないはずです。
でも、宇宙を語る人や予言者などと呼ばれる人は、全てのことを生まれる前に予め決めてヒトはこの世に来ている、こういうような言い方をします。
私は、そういうことがわかるというヒトを否定する気はありませんが、自分が予言出来る特別な能力など持ち得ていないだけに、わからないことは考えても仕方がない、そう思ってしまうのです。もし、本当に決めているのだとしてもその中でもずぼらなヒトは、「俺は決めんと地球行くわ!」っていうヒトがきっと1人か2人はいるやろう、と。
今という瞬間をどう楽しむかを考えて、仮に未来に自分の思う180度反対の結果のことが起こったとしても、誰を恨むことなく認知の仕方のバランスをうまくとっていければそれでいいんじゃないかな。人生というのはそのトレーニングなんじゃないかな。
いろいろ迷うことがあっても、迷うことで自分は成長させてもらってるな、とか、悲しいことがあっても、もっと悲しい出来事に出会ってる人もいるし、悲しみから少しずつでも立ち直っている自分に自分でエールを送れたらなんかそれだけでも小さな幸せを感じられるわっていうことを思えるのが生きているっていうことなんじゃないかな。
俺はこのヒトと結婚するんだろうか、とか、会社を辞めて独立するんだろうか、とか、どっちに振れるかわからない、どう判断すればいいのか答えが出ない。でも、そういう危険と隣り合わせのところに最高の人生の甘い蜜が隠されている。それを味わうためにヒトは生きているのではないだろうか。
秋の空を赤とんぼが目的もなく彷徨っているように見える姿を眺めていると、明日はまたやってくるんだなぁということだけをしみじみと感じ得れるます。