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ROCKはビジネスになりにくいと言われた時代

こんにちは、Hideです"(-""-)"

みちのく杜の都は初冬の中、青空で気持ち良く晴れています。

今回は、”ロックはお金になりにく””と言われていた時代があった、というお話です。

昨年NHKで始まった音楽番組「NHK MUSIC SPECIAL」の第1回ゲストに矢沢永吉氏が出演して、”矢沢塾”と銘打って若手ミュージシャン達にお金の事を話していました。

矢沢氏はデビュー以来、これまでの音楽業界のシステムを覆し、日本にロックビジネスを定着させてきました。

若いアーティスト達と、お金の事について意見を交わしている光景は、とても新鮮な感じがしまでした。

普段のロックシンガーYAZAWAからは見る事が出来ない、お金(ビジネス)の話から、また色々と学ばせてもらいました。

という訳で、今回はお金の話を矢沢氏が語った内容等から、私の考察などをお話しいていきたいと思います。

日本では、ロック(海の向こうの音楽)は商売にならない

海の向こうから日本にポピュラーなロックが本格的に入ってきたのは、ビートルズが最初ではなかったでしょうか。

それまでも洋楽は輸入されていましたが、日本人の耳に強く入ってきたロックミュージックは、紛れもなくビートルズだったと思います。

私が生まれる以前の話ですが、1962年英国からデビュー以来、世界を席巻したビートルズは確実に日本の若者や文化音楽にまで多大な影響を与えました。

日本のロック界のボスである矢沢氏も、やはりビートルズに憧れて音楽の道を志した一人でした。

中学生の頃それまでは、将来板金屋になって職人として独立しようと考えていた矢沢少年は、ラジオから聞こえてきたビートルズに影響され、ミュージシャンとして大金持ちになるんだという大きな夢を描くようになったのです。

おばあちゃんに育てられた少年が、貧しさから抜け出す為、ビートルズに憧れて、音楽で成功すれば大金持ちになれるんじゃないかと考えたようです。

まさにハングリー精神ですよね。

高校卒業後、故郷広島から夜汽車に乗って横浜に出てきた矢沢少年は、絶対ロックで金持ちになってやるんだ!という強い気持ちでバンド活動を始めました。

いくつかのバンドを経てキャロルというバンドでデビューしたのは1972年でした。

当時イギリスやアメリカではビートルズが成功をつかみ、多くのお金を稼ぎました。

それなのに、日本においては音楽といえば、演歌や歌謡曲が全盛で、有名な歌手しか大金を稼ぐことなどできませんでした。

前にもお話ししましたが、当時日本ではフォークが流行り始めた頃で矢沢氏率いるキャロルは流行とはかけ離れた音楽だったのです。

1973年井上陽水が、フォークシンガーとしてアルバム「氷の世界」で日本初のミリオンセラーを達成、歌謡界以外からの音楽的成功は異例の事で、長者番付け歌手部門でも、1975年に五木ひろしさんや美空ひばりさんなどを抜き1位に輝いたことも当時としては偉業とも言える出来事でした。

歌謡曲や演歌以外の音楽が認められ始めた頃でも、まだ日本のロックは民衆に受け入れられませんでした。

若い一部のロックファンが聞いていた程度で、市民権を得るまでの人気も実績もありませんでした。

1972~1975年までキャロルで活動していた矢沢氏は、自分が描いた夢とはかけ離れた不利な条件で事務所やレコード会社と契約させられていました。

若干22.3歳の矢沢氏からしたら業界の仕組みもわからない状況で、半ば騙されたように契約していたのでしょうね。

その時代の日本のロックミュージシャンの処遇とはその程度のものだったと、後に当時キャロルのプロデューサーだったミッキーカーチスさんが、後年その件を語っておられたそうです。

私が中学生の頃に雑誌か何かで見た話では、ロックは商売的にもお金になりにくい、電気楽器を使用し経費もかかる、メンバー数が多くギャラの支出も多い、主催側からしたら多額のコストをかけても利益を生まないと。

遅れていた日本の音楽ビジネス ロックは不良?

では、なぜ井上陽水や吉田拓郎、南こうせつ率いるかぐや姫といったフォークがロックより先に成功を収める事が出来たのでしょうか?

それはまず日本の土壌というか国民性にも関係していたと思われます。

演歌が根付く日本の音楽業界の中で、洋楽色の強いロックは、敗戦国として当時戦前生まれが中心の大人からしたら、素直に認めたり受け入れたりする事はしたくなかったのでしょうね、おそらく…

それに比べ学生の貧しさや反戦をテーマにしたフォークソングは、平和という部分も含め人々に共感を与えた部分が大きかったのでしょう。

当時の日本のロックは、外国のロックのモノマネから脱却できずにいました。

その理由としては、8ビートのロックには、日本語は乗りにくい(後にキャロルが矢沢氏が作曲したロックのメロディーにジョニー大倉氏が作詞した、日本語と英語を混ぜ合わせたチャンポン歌詞で解消されました)

リズムが早く、盆踊りのリズムに体が慣れた日本人にはテンポが速すぎるといった事もありました。

音楽に乗って体を揺らすときに、米国人は横に揺れるが日本人は縦に揺れる、とか言われていました。

基本的に、体で感じるノリが違うのです、聴いている側の。

その後、サザンオールスターズの桑田佳祐氏や、佐野元春氏が、ロックンロールのリズムに見事に調和した歌詞を乗せて歌えるようにしましたね。

それもキャロル(ジョニー大倉氏 作詞)の英語と日本語のミックス歌詞を参考にしたものだと思いますよ。

桑田さんの日本語に似た英語を巧みに使った詩は、「もうロックは日本語の歌詞で歌うんだ!」という、ちょっと前のロックは真似でしかなかったものを、日本人が歌うロックとして確立させたものでしたね。

あと何と言ってもロックに対するイメージが悪かった。

これは事実、私も体験しました。

当時ロック=不良みたいなイメージがあって、学校の昼休みとかの校内放送でもロックを流す事は先生から許されなかったのです。

文化祭でロックを演奏することも頭の固い先生方からとがめられ禁止でした。

「何でそんなうるさい音楽を学校でしなきゃならないの?ロックなんて音楽ではありません(みたいな~)」

と言われる始末でした。

すごい形相で…ロックは悪の象徴みたいでしたね~あの言われようは( ノД`)シクシク…

しかし、そこまで言われても諦めず、初めてその中学校で強硬にロックをやったHide少年達は偉かった~(笑)

今では、そう思っちゃいます(笑)

私の人生において数少ない誇りですね。

オーバーな話ではなく、それくらいロックを演奏するとか、聴かせるっていうのは大変な事件だったのですよ~

昭和ですよね~身を持って体感した私が言うんだからマジ!です。

田舎だったということも当然ありましたが…

日本のロックビジネスから、お金の話をしようとしましたが、ロックでお金を稼ぐってレベルじゃなかったんですよ。

時代背景が…多くの人の前で、演奏したり歌ったりすることすら咎められたから、ロックでビジネスを成り立たせる以前の問題だったのです。

私も中学の文化祭でロックを演奏するって件で大人と対立したので…身に染みてわかります。

しかし、諦めずにぶつかって、新しい扉を開けたのは、自分で言うのもなんですが、功績を残したなと自負しております。

すでに俺は中学時代に、伝説を残したんだって〜

たまに息子や若い奴に、自慢します(笑)
まぁ聞いてる若い子は、親父の戯言程度位に思っているでしょうね(笑)

昭和の時代海外から比べてまだまだ日本は、音楽的にも商業的にもだいぶ遅れていた事がわかりますね。

経済成長期ではあったものの、国際的には出遅れていた感が否めない状況だったのですね。

次回はいよいよ日本が、ロックをビジネスとして構築していくさまをお送りしたいと思います。

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