70年代に聴いて影響を受けたアーティスト 邦楽編 その2
こんにち、Hideです🎶
私が音楽を本格的に聴き始めた1970年代に興味を持って聴いていたアーティスト達を、その1に引き続き紹介していきます。
当時の日本のフォーク・ロックはニューミュージックと呼ばれ、大衆の人気を得ました。
次々、才能溢れるミュージシャンが現れ始めたので、70年代後半〜80年代初期は、現在でも活躍している素晴らしいアーティスト達が出てきた、ゴールデンエイジと言っても良いでしょうね。
では…70年代その2をお送りしましょう♩
サザンオールスターズ ロックミュージックに、巧みに日本語を乗せた天才桑田佳祐
1974年青山学院大学時代に結成。
1978年に「勝手にシンドバッド」でデビューした桑田佳祐をリーダーとした、国民的スーパーバンド。
もはや、どの年代の方にも詳しい説明はいらないとは思いますが、長年に渡り多くの人に支持評価されてきた過去の実績を簡単にまとめてみました。
以下、wikipedia調べにて引用
1979年3枚目のシングル「いとしのエリー」累計売上枚数72.8万枚
オリコン週間2位 同79年度年間11位
TBSザ・ベストテン 7週連続1位 79年度年間2位
1982年14枚目シングル「チャコの海岸物語」58.4万枚 オリコン週間2位
同82年度年間8位 TBSザ・ベストテン 2週連続1位 82年度年間位
1990年28枚目のシングル「真夏の果実」桑田氏初の映画監督作品『稲村ジェーン」サントラアルバム収録曲
出荷枚数85万枚 オリコン週間4位 同90年度年間9位
プラチナディスク獲得
着うたフルにおいてもプラチナディスク、ストリーミング部門でもゴールド
ディスクに輝いている。
2000年44作目のシングル「TSUNAMI」293.6万枚のダブルミリオン達成
彼ら最大のヒット曲となる。
第42回日本レコード大賞に輝いた。第14回日本ゴールドディスク大賞にてソングオブザイヤーも受賞した。
シングルとアルバムの総売上枚数が4883万枚以上を記録している。
当時ロックバンドが、300万枚近くのセールスを記録して、レコード大賞まで獲得したのは、日本のロックミュージックも本当の意味で、世の中に受け入れられた証明にもなった。
デビューから22年、桑田佳祐の才能が日本音楽業界に歴史を刻んだ作品である。
アルバムにおいても日本レコード大賞などで70年「10ナンバーズからっと」から2015年「葡萄」まで数多くの名盤を世に送り出し、ベストアルバム賞など多くの賞を受賞している。
活動開始から46年を経過した現在でも、ライヴ等でも精力的な活躍を見せている。
とにかくSASが出てきた時には、何を歌っているのかもわからないし、歌詞の内容も理解不能なバンドだなぁ〜というのが、最初の印象でした。
しかし、このバンドのリーダー兼ボーカル&ギターの桑田佳祐は、才能に溢れています。
それまで長い間、”ROCKは英語で歌うもの”というミュージシャンと”日本人なんだからROCKも日本語で歌うのが当然”という、英語派と日本語派に分かれていました。
SASがデビューする6年前に、矢沢永吉を中心にフォーク全盛の頃に活躍したCAROLが、巻き舌で歌い、ジョニー大倉が編み出した日本語の中に英語詩を織り交ぜるチャンポン詩で、日本語のROCKはステップアップしました。
そこからは日本語ROCKの進化はひとまずストップしていたのを、いきなり訳のわからない歌で、一気にロックのリズムに見事に日本語を当てはめる事を成功させたのです。
日本の歴史が動きましたね。桑田氏の出現は〜
曲に無理やり日本語を載せている様に見えますが、巧みなテクニックで聴いていて自然に感じてしまうのです。
まさに日本ロック界の言葉の魔術師と言えますね。
人に馴染みやすいメロディーと女泣かせなちょっとスケべな歌詞が、大衆にウケましたね。
日本ロック界いや音楽界に改革を起こした桑田佳祐は天才でしたね。
80年代〜2000年代を超えても、常に第一線で活躍し、他の歌手に楽曲を提供したり、ソロ活動を行ったり、彼は昭和が生んだ天才ミュージシャンです。
一度癌を患いましたが、早期発見での治療で復活しましたし、今後も日本の音楽界を牽引してくれる存在でしょう。
GODIEGO 実力派バンドの筆頭 日本に初めてお茶の間にシンセサイザーでドラマティックな音を聴かせてくれた
1975年にプログレシッブロックバンドとしてデビューするが、日本より先に海外で評価された。
バンド名の「GODIEGO」はリーダーのミッキー吉野が、後醍醐天皇が好きで、そこから付けたとテレビで語っていた。
海外で評価を得たのは、先程触れた桑田氏とは逆に英語詩を得意としていた事と、メンバー全員が卓越した演奏能力を持っていたからである。
英語が得意のボーカルタケカワユキヒデの存在も大きかった。
ハードなサウンドのロックというよりインテリジェンスが高くそれでも親しみやすいメロディーと歌詞を作り出していた。
音楽的中心であったミーキー吉野のプロデュース能力と、数多くのヒット曲を制作したボーカルと作曲を担当したタケカワユキヒデが良い具合でマッチしたのが、大衆にも受けた要因である。
「西遊記」を発表するまでは、大瀧詠一同様、CM曲やドラマのサントラを手がけるなど、実力派なので音楽的才能は認められてはいたものの、世の多くの人に知られてはいなかった。
日本発売のアルバム「西遊記」は、日本テレビのドラマのサントラであるが、全歌詞英語であった。
ご存知の通り、「西遊記」は中国の歴史ある物語だが、それが中国の広大な風景と三蔵法師率いるメンバー達が織りなす人情味あるストーリーに、不思議とグッドマッチしていたのは、見事だった。
ミッキー吉野のドラマの情景を想像させる感性を、当時まだ出始めだったシンセサイザーを酷使したセンスと演奏能力があったからである。
シンセサイザー音楽を世界に広めたYMOがデビューする2年前の作品であることから、その先進性はお分かりいただけるであろう。
坂本龍一もそうだが、ミッキー吉野も、日本を代表する音楽クリエイターの一人である。
ドラマーとベーシストもアメリカ人で、国際派のバンドでもあった。
ギターの浅野孝巳は当時、相当評価が高く、国産のグレコGO IIIという、日本の最新鋭の技術を搭載した、メードインジャパンの当時最高傑作なギターだった。
この時期、ミッキーやタケカワは、多くの歌手に楽曲提供を行なっていたが、その一つの布施明の「君は薔薇より美しい」もミッキー吉野作曲でレコーディングミュージシャンはゴダイゴのメンバーである。
布施がテレビで歌う際には、ゴダイゴのギタリスト浅野氏と同じグレコGO IIIを使用していた。
当時、中学生でその名機に憧れていたロック少年だった我々は、そんなところまでくまなくチェックしていたのです。
ゴダイゴのギタリスト浅野氏は、それまでにないスラッシング奏法など、巧みに面白い弾き方を積極的に取り入れていた。
「ガンダーラ」においては、12弦のエレキギターを用いて、夢の国ガンダーラのイメージを感じさせる、ファンタジックなアルペジオ奏法のイントロを披露した。
「ガンダーラ」はドラマでも使用されたこともあり。88.8万枚のセールスを記録した。
オープニングの英語詩「モンキーマジック」56.5万枚。
ドラマ「西遊記」のサントラアルバム(全曲英語詩)も日本で70万枚のセールスを記録し、その後世界各国においてもリリースされヒットした。
テレビやライヴでは、エレキギターの12弦ギターを使用。
レコーディングでは、アコースティックギターの12弦を何本か使用し、より広がりのあるフレーズになっている。
以下は、wikipediaからの情報です。
「ガンダーラ」は彼らにとって初の日本語詩で、日本語の詩を作ったことのないタケカワが、作詞家奈良橋と話し合ってエキゾティックな歌が欲しいと依頼した。
ガンダーラ美術みたいな〜とのタケカワの話から、そのままタイトルが「ガンダーラ」になった。
リーダーのミッキー吉野は、アマチュア時代から才能を発揮し、横浜で有名なライブハウスにも出演していた。
ベーシストもドラマーも卓越したテクニックを誇っていた。
80年代にかけて、日本語歌詞の親しみやすい楽曲で幅広い世代に聴かれたロックである。
私の世代だと、やはり「西遊記」はアルバムでも70年代後期のNo.1の傑作でしょう。
ドラマとリンクしていた音楽は、ミッキー吉野の才能が発揮された作品だと思います。
「西遊記」関連作品以外にも、「ビューティフルネーム」売上53.8万枚(国際児童年 協賛歌)や映画「銀河鉄道999」売上66.6万枚の同名主題歌です。
印象に残る、実力派バンドで、アマチュアミュージシャンの駆け出しだった私も非常に勉強にもなりましたね。
私も何枚かレコードを購入しました。名曲「ガンダーラ」の印象的なギターイントロは、今でも弾けますよ♩
甲斐バンド 福岡出身のフォークバンドからのスタートしたが地道なライヴ活動でファンを獲得した 昭和を代表するライヴバンド
1974年にフォークバンドとして「バス通り」でデビュー。
セカンドシングルの75年発表の「裏切りの街角」がチャートでトップ10入りしてヒットする。
リーダー兼ボーカル、作詞作曲を主に担当していた甲斐よしひろを中心に、ロックバンドへと移行していった。
甲斐が映画好きだったこともあり、曲のタイトルや楽曲制作に、古い洋画等をモチーフにした作品が多い。
1978年、腕時計SEIKOのCMにメンバーも出演し、バンド初のオリコン1位を獲得する。
当時人気番組であったTBSのザ・ベストテンから幾度となく出演依頼があったが、ライヴ中心の活動を主にしていて、番組では構成上、曲をフルコーラス歌えないテレビでは歌いたくないとの意向から”出演拒否”をしていた。
当時のニューミュージック(日本のロック・フォークの総称)のアーティスト達の中には、甲斐と同様に矢沢永吉や松山千春、オフコース他が、やはり同番組には出演しなかった。
甲斐バンドは、番組関係者からの幾度も懇願されて、一度だけ条件付きで、自分のラジオ番組内のスタジオライヴからの中継で出演している。
その時の条件は、番組の司会者からの質問は無しで、ライヴを行なっているNHKのスタジオから甲斐が枠内で「HERO」をフルコーラスで歌う事だった。
これは当時、甲斐が毎週パーソナリティーを務めていたNHK FMのサウンドストリート内で、コメントしたのが私の記憶にきっちりと残っている。
「HERO」をヒットさせると、その勢いをそのままに、次々とヒット曲を連発していき、当時バンドとしては、コンサートツアー中心の活動で、当時の観客動員数日本一の記録を持っていた。
NHKホールで単独ライヴを最初に行ったロックバンドも甲斐バンドで、80年代には甲斐がラグビーが好きだったこともあり、秩父宮ラグビー場で初のコンサートも行った。
珍しいのは東大寺境内でのライヴはロックバンドとしては、珍しかった。
その後、ハウンドドッグなど、ロックバンドはライヴツアーを中心に、直に観て聴いてもらってオーディエンスを魅了するというのを、当時の矢沢永吉同様日本ロックバンドの活動ポリシーを定着させたバンドでもある。
「HERO〜ヒーローになる時それは今」は、180万枚を売上げ、それまでマイナーだったライヴバンドを一気にスターダムへ押し上げた。
その後「感触タッチ」や「安奈」、化粧品CM「ビューティフルエネルギー」等、ヒット曲を数多く世に送り出した。
80年代に入ると、「漂流者アウトロー」や「シーズン」「BLUE LETTER」等もヒットさせている。
この一連のヒットで、一番嬉しいと甲斐がラジオ内で、喜んで言っていたのが、現在ヒット中の曲やアルバムだけでは無く、「過去のアルバムも売れているのが凄く嬉しい」と語っている。
当時、ヒット曲に恵まれ甲斐バンドの知名度は上がっていたが、オーディエンスからの評価は割とはっきり二分化していた。
矢沢永吉同様、甲斐よしひろの強い個性が、そうさせていたのも、またこのバンドの魅力でもある。
しかし80年代に入ると甲斐も松田聖子への楽曲提供もしている。
ライヴでセルフカバーも披露しているが、彼らの曲には無い楽しいポップな雰囲気になっていて、聖子ファンからも人気がある。
やはり甲斐よしひろの才能は、類稀なるものがあったのだろうと感じている。
個人的な話だが、中学時代に高校受験の勉強をしながらラジオを聴いていた友人から、ラジオから流れてきた、甲斐よしひろの声が私に似ていて、翌日「お前が歌っていると思ったよ〜」と言われたことがある(笑)
田舎の中学3年だった自分の歌が、ラジオで流れるはずも無いのは当然のことだが…(笑)
お世辞でも嬉しかった感じがしたのは、今でもしっかりと憶えている。
ちなみに私は甲斐バンドの曲が好きで、レコードもよく購入していたし、ギターで弾き語りにしていた、ギターもそれほど難しくなく、声質も似ていた?ので歌いやすかった。
今でも特に好きな曲は「安奈」で、現在でもギターで弾き語れるマイフェバリットソングです。
甲斐バンドは中学の頃、特に影響を受けたバンドのひとつですね。
あとがき
まだ中学生だった私は、あまりこだわり無く耳に入ってきた音楽を自然と好奇心を持って聴いていました。
今こうやって振り返ると、もう40年も前なのに当時のミュージシャン達は本当に凄かったですね。
現在のように、基になるものがなかった中、何もかもが新鮮で衝撃的でした。
日本のロックを彩った歴史をリアルタイムで観れて聴けたのは、本当に幸運だったと思います。
あの頃があったから、今の自分の感性があるのでしょうね。
大した事ではありませんが、私にとっては、無形の宝物ですね。
次は、80年代に入っていきますので、乞うご期待を🎶