1983年〜84年 日本ロック界に新風が巻き起こる🎵
こんにちは、Hideです♪( ´θ`)ノ
1983年(昭和58年)は、私が高校を卒業して車の免許も取得して就職した年です。
世の中の動きでは、83年4月に千葉に東京ディズニーランドがオープンしました。
バブル期の前でしたが、もうその頃から好景気であったことは間違いありません。
高校から就職するにしても、2〜3社から内定をもらい求職者が入社する選択する余地があったくらいですから。
非正規雇用なんてものもありませんでしたし。
学歴や能力によって、差はありましたが〜それでも正規社員としてどこかには入社できた時代でした。
そんな景気の良い中、日本の音楽業界も活発な動きが見られました。
80年代に入って、ロックならずも日本の音楽業界が大きく躍進したのがこの80年代でした。
日本のロックと言えば、外国の模倣みたいな物ばかりでしたが、ジャパニーズロックというのが確率されてきたのが80年代でした。
今回は、83年と84年に新しい風を吹き込んだアーティスト達を紹介していきます。
チェッカーズ 1983年9月「ギザギザハートの子守唄」でデビュー
福岡県久留米市出身の7人組のバンド。
私は最初、ラジオで「ギザギザハートの子守唄」を聴いてこのバンドを知りました。
この曲を初めて聴いた時「ちっちゃな頃から悪ガキで〜15で不良と呼ばれたよ🎶」という歌詞に、歌っている人達はどんなに不良なんだろう、なんてイメージを持っていました。
ちなみに、当時この歌を口ずさんでいたら、周りの大人達から、それお前の事だろ〜なんて言われました(笑)
このデビュー曲は当初はヒットには至りませんでした。
音しか聴いたことがなかったので、テレビで観たイメージは、ちょっと違った感じがしましたね。
84年1月に発売された2ndシングル「涙のリクエスト」が大ヒットして、それに牽引される様にデビュー曲の「ギザギザ〜」も見直されヒットチャートに躍り出ました。
同年5月にリリースされた3rdシングルの「哀しくてジェラシー」もヒットし、一時期3曲がトップテン内に入った事もあり、まさにチェッカーズフィーバーに沸きました。
同時期に3曲チャートインするのは、寺尾聰以来の出来事でした。
デビュー曲から3曲チャート入りは、原田真二以来です。
バンド名の通りチェックのダボダボの衣装に前髪が一部だけ長くしたあのファッションが目立っていましたね。
彼らはヤマハのコンテストで見出されたバンドでしたが、デビュー当時はアイドルバンド的な要素が強かったです。
CAROLが好きだったというボーカルの藤井フミヤは、小柄ながら歌唱力もありルックスも美少年といった感じでしたので、アイドル路線で売りたくなる営業サイドの考えもわからなくは無いですね。
私も「涙のリクエスト」をカラオケで振り付けを真似してよく歌いました。
他2曲もシングルレコードを購入して、カーオーディオで聴いていました。
デビューから数多くのヒット曲を送り出して、女性からの人気もあった彼らですが、86年からオリジナルの自作曲をシングルやアルバムでもリリースする様になりました。
本来バンドとしてやりたかった姿だったのでしょう。
シングル「NANA」も際どい歌詞でNHKから放送禁止になったりしました。
同じ頃、メンバーのソロ活動も増えていきました。
88年にはオープンしたての東京ドームでのライブを成功させチェッカーズが日本のロックバンドとしての位置を確立しました。
その頃、フミヤも自身が出演するCMに起用されたソロシングルも発売しました。曲のリリースのみで、他のソロ活動はチェッカーズ在籍中はしないと公言していました。
チェッカーズは、ドゥーワップロックンロールの曲調で、どちらかと言うと、他のロックバンドとはちょっと違いR&B系のラッツ&スターをもっとポップでR&Rリズムにしたスタイルだった印象が強いです。
センターにリードボーカルのフミヤがいて、左右両隣にサイドボーカルの鶴久政治(兼キーボード)と高杢禎彦(兼パーカッション)がいて、賑やかに見えましたね。
確かに観ていて、こちらを楽しませてくれる華があったグループでしたね。
オリジナル曲もなかなかセンスが良かったな、と感じさせてくれました。
*87年ライヴでの「I Love you, SAYONARA」この頃になると彼ららしい音楽とパフォーマンスになりましたね。本当に格好いいですね。
私としては、87年3月発売の13作目のシングルでメンバー制作の二枚目である「I Love you, SAYONARA」が好きで、これもまたカラオケでよく歌っていました。
デビューして7年目の1990年中堅バンドとなった彼らでしたが、その年から続々とメンバーが結婚する様になりました。
これは、以前働いていた会社の同僚から聞いた話ですが、奥様が福岡県久留米市の出身で、お盆に帰省した際に、フミヤの結婚を久留米全体で祝ってお祭り騒ぎになっていたのを見たそうです。
松田聖子も同じ久留米市の出身ですが、いかに地元からチェッカーズが愛されていたのがわかる逸話でしたね。
その後、メンバー間の確執の噂などもあり、92年の大晦日紅白歌合戦を持って10年間の活動に終止符を打って解散となりました。
グループ解散後もフミヤは、藤井郁弥名ソロとして活動、チェッカーズでサックス担当だった実弟藤井尚之とF -BLOODとしてライブを行ったり、他のメンバーもアブラーズというバンドで活動したり、それぞれ行っていました。
郁弥はその後も絵を描いたり俳優など、多彩な才能を発揮して活動していました。
私が18歳の頃からテレビなどでよく観て、レコードも聴いたバンドだったので、チェッカーズを聴くと若い頃を思い出します。
他には、あまり類を見ない系のバンドでしたね。
アイドルとしてデビューして、途中から曲の制作なども手掛けましたが、彼ら自身自分たちはアイドルだと公言していました。
曲も作れるアイドルバンドなんて呼ばれていましたし、ちょっとコミカルな部分も観せ手くれました。
メンバーも個性は揃いで、当時のオリジナル曲でヒットしたシングルの作曲も郁弥(作詞)以外のメンバーでした。
とにかく、面白いバンドでしたね。
2004年8月にドラムを担当していた徳永善也氏が40歳という若さで舌癌の為、逝去されました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
また、近いうちにカラオケでチェッカーズを久しぶりに歌ってみようかな〜
吉川晃司 1984年2月1日「モニカ」でデビュー
広島県安芸郡府中町出身 1965年8月18日生まれ
吉川晃司というと最近では「下町ロケット」等で見せる俳優としてのイメージが強いが、本業はロック歌手なのである。
大手の渡辺プロダクションからのデビューという事でレコード「モニカ」と映画「すかんぴんウォーク」の両方でデビューという手法がとられた。
中学から水泳を始め水球部に所属し、日本代表にまでなり、2年連続で全日本最優秀選手にも選ばれた。
水球の推薦で慶應義塾大学への特待生での入学の道もあったが、高校生の時にバンドを結成。高2の時に観た佐野元春にカルチャーショックを受け、以降音楽一本に絞って勝負したいという気持ちが芽生え、高校3年進級時に、広島県では名門の修道高校を中退、上京してデビューを目指すことになる。
水球を続けていたらオリンピックの選手にも選ばれた逸材であったが、吉川は五輪出場よりも音楽を選択した。
最初、テレビで観た時は、その体つきに驚いた。長身でしかも水球選手ということもあり肩幅が広いのにはびっくりしました。
当時のスーツには肩パッドが入っていたソフトスーツと呼ばれる物が流行していたが、吉川には肩パッドがいらないな〜と感じてしまった。
歌うアクションも他の歌手の動きとは違い、いかにもアスリートが歌っているというキレのある動きだった。
脚が頭より高く上がっていたのを思い出す。
ザ・ベストテンの中継では、曲のエンディングで高い飛び込み台から飛び込んだ姿は、まさにアスリートだった。
高校時代から広島ではライブでの観客動員も盛況で、実績充分でのデビューとはなかなかいかず、最終的に吉川がナベプロの社長に直談判して、その度胸を買われデビューに至ったという伝説も残っている。
デビュー時には、映画の製作費や宣伝費など含め莫大な販促費を吉川にはかけたらしい。
デビューしてヒット曲を連発できたから良いが、これが売れなかったら流石の大手ナベプロモもいたかったであろう。
社長がかなり吉川に入れ込んでの投資だったようだ。
吉川もチェッカーズ同様、最初は体育会系のアイドルとして売り込まれた。
第26回日本レコード大賞新人賞を「モニカ」で受賞。
第8回日本アカデミー賞 新人俳優賞受賞。歌手と俳優の二刀流での新人賞受賞となった。
私も「モニカ」や2ndシングル「サヨナラは八月のララバイ」はシングルを購入して車でよく聴いていた。
しかし、観て聴いて感じたのは、音楽センスとリズム感は良いものの、声量というのにかなり難があった。
テレビで観ていても、声が弱くてバンドの音に声が埋もれてしまっていた。
その後、ボイストレーニングを行い、音楽的にも路線を変えロック色の強い曲調へと変化していった。
ボイトレ後は、しっかりと迫力ある声で歌えるようになった。
ボイトレ後のヒット曲としては87年6月発売の「終わらないサンセット」と92年2月発売「せつなさを殺せない」(作詞作曲:吉川晃司)が有名かな。
その後、88年に元BOØWYのギタリスト布袋寅泰とユニットCOMPLEXを結成、2年間活動する。
東日本大震災の復興支援ライブで2011年7月に一夜限りの復活をする。翌日追加公演を行い計10万人を動員。
俳優業でも活躍する吉川であったが、ライヴも行っていて熱心なファンが足を運んでいた。
元々アスリートだった吉川だったが、驚くのはライヴでの見せ場である”シンバルキック”だ。ステージのセンター後方に、高い位置に一枚シンバルが置かれていて、吉川がそのシンバルをキックして鳴らすという技である。
シンバルキック動画↓↓↓↓
デビュー当時は、曲のエンディングに片手でバク転を行っていたが、肩を脱臼しやすくなり封印した。
吉川のライヴ名物シンバルキックがいつしか見せ場になっていった。体育会系の吉川らしい演出だ。
永ちゃんのマイクターンと同様、観に来ているオーディエンスが喜ぶ場面だ。
吉川晃司は、同時期デビューした同い年の尾崎豊と仲が良かった。よく二人で朝まで飲み明かしたらしい。
いやとにかくこの人の派手なパフォーマンスにはいつも驚かされましたね。
バリバリのアスリートが歌手デビューするなんて、それまであまり前例がなかったので。
どちらかというとミュージシャンって運動嫌いのイメージがあるので、衝撃的でした。
ちなみに氷室京介はテレビで運動はほとんどしないと語っていた。
最近では「下町ロケット」での財前部長役が好評な吉川晃司、渋いですね〜
1980年代は、日本を代表するミュージシャンが続々とデビューした時期だった
今回は83年デビューのチェッカーズと84年に華やかにデビューした吉川晃司を取り上げたが、80年代は本当にその後の日本音楽界を代表するアーティストがどんどん出てきた時期でした。
83年には尾崎豊、84年にはレベッカやTMネットワーク、85年にはX JAPAN等々、数えたらキリが無いほどの有名ミュージシャンが誕生したのが80年代である。そしてその多くが現在でも現役で活動している。
まさに日本の景気同様、音楽界も絶頂期だったと感じる。
私が青春時代の熱く燃えたぎった時期だったから尚更思い出深いのだろう。
本来は今回尾崎豊も取り上げるべきなのだが、彼に関しては、他の記事で書いているのが多いのであえて割愛させていただきました。
チェッカーズと吉川晃司、それまでにないタイプのバンドでありボーカリストだった。
チェッカーズは解散したが、藤井郁弥や吉川晃司には、これからも同世代の人間の一人として活躍を期待して願っている。