70年代後半から80年代前半の日本ミュージックシーンヒストリー 後編
こんにちは、Hideです♪
前編に引き続き70年代後半〜80年代前半の日本音楽シーンのヒストリーをお送りします。
バブル期直前の1983年あたりから日本の音楽も随分と明るくポップなメロディーと弾むようなリズムと煌びやかなサウンドになってきます。
いつの時代も世相を反映するのが音楽という文化なのですよ🎵
では後編を〜どうぞお楽しみ下さい。
アイドルエンターテイメントの変革期 アイドルも進化していく 多ジャンルとの融合で進化
松田聖子は期待されていない中で売れたと話したが、彼女の功績は営業的なものだけでは無かった。
歌謡界に新たな試みがなされた、その扉を開けたのは聖子だった。
それはというと、70年台後期に頭角を現してきたニューミュージックのシンガーソングライターに楽曲提供を依頼する、という施策だった。
それまでも「襟裳岬」や「シクラメンのかほり」、「やさしい悪魔」といったフォーク系のシンガーソングライターから楽曲提供を受けてヒットさせる手法はあったが、聖子の場合は楽曲だけではなく、そちらの路線に方向転換したと言える。
可愛いだけのアイドルから、これまでの路線とは一線を画す音楽性や、サウンドアプローチやアレンジから歌手自体が持つ内面的な魅力まで引き出すといった手法だ。
もちろんどんな歌手にもこなせた技ではないだろう。
周りのスタッフの中に聖子の内面にある素晴らしい感性を見つけることが出来た故のプロデュースだったのではないかと感じる。
デビューして2〜3年でそこに行き着く聖子の強運と才能には驚く。
80年初頭からのアイドル当たり年を経て、それまでのテリトリーを壊していく活動が出来るようになった事は日本のアイドル文化の大きな成長だ。
アイドルの枠を超えた、しっかりとした方向性を示したエンターテイメントビジネスが構築された。
日本のアイドルエンターテイメントがビジネスとしての成功事例と言えるだろう。
まさに日本の景気が上向いている予感を反映させた。
ここからジャンルの垣根を超えた世界が広がっていく。
バブル期 ジャンルを越えた音楽、日本の音楽シーンは煌びやかに変貌していく
ニューミュージックの台頭→アイドル全盛期エンターテイメント化→ジャンルの融合、JーPOP日本音楽の確立
と言った具合に70年代後期から80年代前期、80年代中盤からのバブル期へと世相を反映しながら、日本の音楽シーンも進化していった。
当時、リアルタイムでそれを目撃出来たのだから、その進歩というか変貌には凄まじさを感じる。
当に音楽は時代を移す鏡の様だった。
混沌とした70年代を越えて、安定期に入った日本そして経済絶頂期のバブル時代へと世は進んで行った。
そこで音楽シーンの状況だが、自分が高校を卒業し社会人となった1983年、ディズニーランドが開園した年。
バブル期目前で日本経済も右肩上がりで音楽業界も、新たな時代へと入って行く。
83年に9月にチェッカーズが「ギザギザハートの子守唄」でデビューし、同年12月に尾崎豊がCBSソニーオーディションを経て「15の夜」でデビューし、明けて84年2月に巨大芸能事務所のナベプロから約1億数5千万円という莫大な制作費と宣伝費を投下して「モニカ」でデビューした吉川晃司が、現れたのである。
この3組はある意味異色の歌手とバンドであった。
チェッカーズと吉川は、ロック系だがアイドルとして売り込まれ、尾崎に関しては何のプロモーションもせず、彼の音楽性を重視した戦略がとられた。
尾崎の場合は、所属事務所が弱小であった事もあり、販促費をかけないデビューになった為とも言われている。
デビューの1ヶ月後に発売されたアルバム「十七歳の地図」の初回出荷は僅か3,000枚で主要レコード店にしか並ばなかった。それを自らのレコードを買いに行き尾崎ががっかりしたという。
尾崎もチェッカーズや吉川より2年遅れではあったが、「卒業」で大ブレイク、一躍”十代のカリスマ”となった。
吉川は体育系で身長も高く素晴らしいスタイルを持ち、チェッカーズもバンド名通りチェックの衣装に前髪を筋の様に垂らしたヘアースタイルとボーカルのフミヤの甘いマスクで女性から人気を得た。
尾崎もイケメンでこの3組は容姿ではアイドル的であった。
そんなロック系アイドル?とはみ出し者系シンガー尾崎の個性が爆発した時期であった。
その中でも一際話題になったのが84年8月にデビューした少女隊だった。
私がレコード会社でバイトしていた頃に、レコード店を仕事で訪問していたのだが、デビュー直前からレコード店では少女隊と吉川晃司の宣伝媒体で埋め尽くされていた。
当時は音楽業界もアメリカの影響から、プロモーションビデオを利用して映像を音楽の宣伝に活用し始めた頃で、どの店でも少女隊と吉川晃司のポスターが飾られ、ビデオが流されていた。
吉川はレコード宣伝費とテレビスポットで4千万円をかけていて、有線放送スポットで400万円、それに主演映画の制作費に1億円と莫大な投資をしていたが、それをも上回る資金を投下していたのが、少女隊だった。
自分は少女隊のファンでもなければ、勤めていたレコード会社の所属グループでもなかったが、3億円と言われた制作費と宣伝費は、当時業界人でなくても知っていた話である。
何せ、宣伝広告やビデオで30億円をかけたグループと謳い文句にしていたからだ。
まぁその派手な宣伝と、他の歌手が入る隙間さえない力の入れようは凄かった。
自分がそれまで見てきた売り出し方では無かった。
具体的に言うと、プロデューサーにピンクレディーを手がけた都倉俊一を起用し、レコーディングはロスアンゼルスで行い、アメリカの一流ミュージシャンを起用して、シングルとアルバムそしてビデオと12インチシングルを同時発売という今までになかったド派手なデビューだった。
当時の若者で少女隊の名を知らなかった者はいないはず、と言えるほど物凄い宣伝であった。
私も当時19歳という若さではあったが、これ売れなかったらどうすんのかな〜と心の中で思っていたくらいだ。
そしてデビューしたが宣伝とは裏腹に、見事に売れなかった。デビュー曲「FOREVER〜ギンガムチェックstory〜」
もヒットチャートのベスト10内に入らず、派手な宣伝も水の泡となったのであった。
これまで見てきてあそこまでお金をかけて玉砕したのを見たのは初めてだった。
その後90年まで活動するが、何曲かはベスト10内には入ったが、さほどブレイクしないまま解散となった。
所属事務所もその後藤さんの道を辿るといった悲惨な終焉となった。
吉川晃司はそれなりに売れたが、少女隊は通常のアイドルよりも売れなかった。
何が原因かというと、オーディションでの選考が良くなかったと思う。
三人組だが藍田美豊以外は、特に何かオーラを感じさせるものも無くそこら辺にいるちょっと可愛いお姉ちゃんという感じで、アーティスト路線を狙ったグループにしては人選が甘かったなと感じてしまった。
やはり普通の女の子でもお金をかければ売れるとはいかないものだ。
本人たちに本気で頂点を目指す気持ちもあったのかもわからないし、見ている側からしても伝わってくるものがなかった。
事務所側に、お金をかければどんな娘でも売れる、といった驕りがあったのではないかという厳しい批評もされた。
世の中が好景気で浮かれて真剣に取り組む姿勢が売り出す側になかったのだろう。
芸能界における大きな失敗事例であった。
松田聖子の場合とは真逆のケースだ。
何事も思惑通りにはいかないのが世の中だということを、業界にいて恐ろしく感じた出来事だった。
今から40年も前に30億円?という巨額な資金が泡の如く消えていったのである。
現在の価値なら100億円くらいだろうか…勿体無い。
バブル景気でも、やり方を誤ると失敗すると教訓にな理ましたね。
少女隊以外は、世相を反映して音楽も煌びやかになっていった。
ハードで骨太という感じではなく、ポップでキャッチーで色鮮やかなイメージな音楽になっていった。ロックもシンセをふんだんに織り込み、ハードな中にも煌びやかさが目立つ作風が流行っていた。
とにかく聴いている人を楽しくさせてくれる音楽が受けた時代で、映像を活用しディスコで体で音楽を感じて踊っていた。
あの頃は年も若くて、いつまでもこの楽しい日々が続くと思っていた。
そんな懐かしい音楽をたまに聴くとあの楽しい頃が蘇ってくる。
懐かしんでばかりいられない現在の世の中ですが、そこから少しでもパワーをもらって未来に繋げていきたいと思っている。