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愛と永久のかみあわなさ「ソー:ラブ&サンダー」の感想
「失って最低の気分になる方がずっといい」みたいなセリフ、マジ至言。
タイトルが公開された時からずっと楽しみにしていたラブ&サンダー。
予告を見ても、静かに瞑想する、らしくないソーの様子と、ゼウスを演じるムチムチなラッセル・クロウと、ダッサいタイトルロゴが最高だったのでウキウキで観に行った。
さてどうだったのかというと、うーん。傑作になりそうだったのに、いくつか微妙な点と、あと明らかなライン越え描写が2個あったせいでうまく乗れなかった。この記事の前半ではソーというキャラクターについて考えながら、この映画で良いと思ったところに触れていき、後半では良くなかったところにも触れていくと思う。
ちなみにネタバレはガンガンにしていく。
ソーという男、ソーという女。
このところのヒーロー達って、なんかずっとライフワークバランスの話してるよな。
ヒーローとして消耗するのか一人の人間としての幸せを追うのか。しかしソーはラグナロクからこっち、その手の悩みとは無縁だった。その悩みのなさはソーが北欧神話の神であることに関係している。戦いの神話である北欧神話の登場人物はみんな戦士。だから彼の日常は戦いの中にあるのだ。
彼がソーという本名でヒーロー活動をしているのもむべなるかな。そこにはアイアンマン/トニースターク、キャプテンアメリカ/スティーブロジャースのような「ヒーロー/人間」の二面性はない。
特に2の後にジェーンと別れてからは、家で彼の帰りを待つような人がソーの周囲にはいないので、ソーはアイアンマンやキャプテンアメリカのように、ヒーロー活動と自分の人生との二者択一で悩むことがない(最終的にアイアンマンは戦場をとり、スティーブは家庭をとった)。これはソーというキャラクターの気楽さ、風通しのよさの一因になっている。(補足1)
補足1
このソーの特異性がマイティソー1,2ではあまり見られなかったのはジェーンの存在によるものだろう。日常の象徴としてのヒロインの存在はソーの個性を弱める方に働くので、それがオミットされた3以降で、ソーのキャラがより立つようになったのは当然のことだ。
しかし今作では、その気楽さの奥に潜む恐怖がソーに突き付けられる。
かつてソーがジェーンという恋人を遠ざけたのは彼女を失ったときに傷つくのを恐れたから。なので彼はジェーンときちんと別れられてもいない。失恋の決定的な瞬間が訪れないままにジェーンは彼の前から姿を消した。
ソーは自らの「ヒーロー活動=人生」という同一性を守るために、他人を自分の人生に立ち入らせないようにしてきた。(補足2)
事実、彼は疑似家族的な共同体であるGOTGに加入することはなく、今作の冒頭でもクィルが呼びに来るまでは一人で瞑想している。それにコーグも彼にとっては家族ではなく友人の枠に入っているように見える。
補足2
誰よりも人懐っこそうな彼が他者とのつながりに怯えているというのは切なすぎる話だ。彼はこれまでの人生であまりにも多くを失ってきた。母親、父親、弟、恋人、国、それはもう笑えるほどに失いまくっている。
しかし瞑想をしても何をしても彼の孤独が癒されることはなく、結局ジェーンへの想いは再会によってふたたび燃え上がる。
しかし今作は、彼を「ヒーロー活動/人生」の二者択一に引きずり込む物語ではない。
「ソー:ラブ&サンダー」という物語は、ソーがジェーンを愛することで、これまでずっと棚上げにしてきた「ヒーロー活動/人生」の二者択一に向き合い、そしてその二つを合一するまでの話だ。
そしてこの合一はソーではなく、新ソーであるジェーンによってなされる。
後半、いったん地球に戻ってから、ソーは病身のジェーンに戦場に行かないように頼む。戦場には自分だけで向かうと。
これは日常をジェーンに預け、自分はヒーロー活動をするという宣言で、ここでソーは例の二者択一に向き合っている。
しかし、この映画において「ヒーロー活動/人生」の選択権を持つヒーロー"ソー"はもう1人いる。それがジェーンだ。
彼女はヒーロー活動をとり、戦場へ向かうが、自分の生きる意味をヒーロー活動に見出している彼女にとって、その選択は自分の人生を捨てたことにはならない。弱きものを助けるために戦場で生きる。これは戦場を日常とするアスガルド人そのものの考え方だ。(補足3)
補足3
あの、ジェーンが駆け付けたシーンでのソーの悲しそうな顔良かったな。「なんで来てしまったの?」って感じの。とても人間らしいよね。
ソーはジェーンの選択にショックを受けるものの、彼女が戦場で生きるアスガルド人になったことで、ソーの中でも「ヒーロー活動(戦場)/人生(ジェーン)」という対立構図が崩れ、合一がなされることになった。
かくしてソーはジェーンと共に戦い、その果てに愛のあかしとしての「相手を失った最低の気分」を手に入れた。
のだが……。
神殺しゴア/鏡映しのゴアとソー
今回の敵である神殺しのゴアだけど、めちゃめちゃかっこよかった。
彼の思想は「神に祈ったのに神は娘のために何もしてくれなかった。だからすべての神に復讐してやる。」って感じ。(補足4)
冒頭にオリジンを配置したこともあってかなり感情移入の度合いが高かった。正直ここだけで若干泣いてた。
「がんばれゴア!すべての神を殺すのだ!」くらいには思ってたからね。
補足4
一方ソーはソーで、身勝手に振る舞うゼウスを殺す。これはかつて光の神を殺したゴアと重なる。では何がゴアとソーを分けるのか。
ゴアは全ての神を悪と断じているがソーは神のなかにも善悪はあると考えている。じゃあなぜゴアは神々をひとくくりに考えてしまうのかというと、彼はヒーローという存在を知らないからだ。
ゴアは神を信じていて裏切られたけど、ソーが信じているのは神じゃなくてヒーローだ。
自分のことしか考えない神に対して、この映画はヒーローを、自分の身を犠牲にしてもみんなを助ける存在として定義している。しかし繰り返しになるが、ソーの物語において、自分の身を犠牲にすることと自分の人生を犠牲にすることはイコールではない。
ただ、ゴアに感情移入していたとは言ったものの、ゴアがアスガルドの子供達をさらったことに関しては納得してないからね?
お前が一番親と子が離れ離れになることの酷さを知ってたんじゃないの?
ゴアのこの行動については二通りの説明ができる。
1、ゴアはネクロソードに精神をやられてしまっている。
2、そもそもゴアは他人に興味のない人間で、自分以外の親も自分と同じように子供を失うと悲しい、ということを理解できない。
さてどちらか。これは後に明らかになる。具体的には次の章で明らかになる。
あとさ、子供たちに雷神の力を貸し与えて戦わせるというソーのソリューションは、ともすれば「ゴアの娘もこんな風にがんばるべきだったのにね」という自己責任論にもなりかねないんですけど。(補足5)
補足5
へたに主人公と敵を鏡写しの関係にしてしまうと、主人公の一挙手一投足に、敵の行動への批判性が生じてしまって大変だよね。
何はともあれ、最後、ゴアはジェーンを抱きかかえるソーにかつての自分の姿を見て、自分の本当の願いを思い出し、神々の死ではなく娘の復活を願った。そしてそれは叶った
ここだ。ぼくはここが受け入れられなかった。
この物語はゴアに娘を生き返らせるべきじゃなかった。そしてエンドロール後にヴァルハラにたどり着いたジェーンの姿を映すべきでもなかった。この二点が、僕が今作でラインを超えたと思っている部分だ。
以下の2章ではこの二点、永久とヴァルハラが引き起こす問題について語っていこう。
永久倫理問題
最初に訪れたものの願いを無制限に叶える「永久」という領域。
インフィニティガントレットですら死者を生き返らせられるかどうかはボカされていたけど、永久は死の境界線を簡単にまたいで見せる。
そんな存在を前に、ゴアは本当の本当には何を望むべきだったのか。
身もふたもないことを言ってしまうと、ゴアは永久に対して、娘の復活だけでなく、全ての存在の復活とその恒久的な存続と幸福を願うべきだった。
それをしなかった時点で、これまでMCU世界で起こったすべての悲劇と今後MCU世界で起こるすべての悲劇はゴアのせいということになる。(補足6)黙って見過ごしたソーも同罪だ。
補足6
ここでゴアが
「2、そもそもゴアは他人にそんなに興味のない人間で、自分以外の親も自分と同じように子供を失うと悲しいということを理解できない。」
だったことが分かる。
確かにこれは意地悪な指摘だ。でもこんな意地悪な指摘をさせないためにも、作中で死を軽々しくまたぐべきではなかった。
自己を見つめ直す系の物語に、無制限に願いを叶える装置を出すことの問題はこれだ。
その装置で解決できる問題の規模が大きすぎて、自己との和解、みたいな小さな話への接続がうまくいかない。
ヴァルハラ倫理問題
戦いの中で死んだアスガルド人が辿り着く、ヴァルハラの存在を明示したことは、観客に対してある倫理的な問いかけをしたに等しい。
つまり、ヴァルハラが存在するのであれば、アスガルド人は子供を守る必要などなく、ただ戦争に送り込んで戦いの中で殺してしまえば良いことになる。
この行為は完璧に倫理的だ。
と、そう考えたらソーが子供たちを戦わせる描写にも妙に合点がいってしまった。
というのは、ソーにとって子供たちが死ぬかどうかはあまり重要ではなく、死んだら死んだで別にいいけど、もし死ぬのであれば戦いの中で死ぬべきだと考えている可能性がある。
まあヴァルハラの実在を知っているのは観客とヘイムダル達だけで、ソーたち現世のアスガルド人はヴァルハラが実在するかどうかを知らない。
上であげたような非人間的な倫理観は、現世のアスガルド人がヴァルハラの存在を知っている場合にのみ発動するものだ。なので前提が果たされていない以上、これについてとやかく言うのは無意味だろう。
しかし我々観客は既にヴァルハラの実在を知ってしまっている。なので我々はもう二度とソーと同じ目線で彼の物語を追うことができない。
具体的には、今後アスガルド人がピンチに陥っても、「最悪戦って死ねばOKじゃんね」くらいのテンションで見守ることになる。
別にヴァルハラがあっても良い。いつかソーとジェーンが再開できるなんて素敵なことだと思う。だけどそれは可能性に留めておいて、画面には映さないでほしかった。
これは誰に向けた物語なのか?
という訳で、以上二点が僕がライン越えだと思った部分だ。どちらも永遠の別れが無効化されてしまうという点が共通している。
ゴアの娘は生き返って、ジェーンも死んだ後にヴァルハラで元気に暮らしてる。って、これは「大切な誰かを失った人/これから失う人」に向けた物語じゃないのか?
これではゴアもソーも実質的には何も失っていないじゃないか。
そもそも、今作のメインテーマである「いつか来る別れにおびえて相手から距離をとるより、愛する相手を失って最低の気分になる方がずっといい」という人生哲学は、避けられない死という人生のままならなさを前提においている。
そんな不可能性との向き合い方をメインテーマに据えた物語に、その不可能性を根本から無効化できちゃう装置なんて絶対出しちゃだめだろうが。
ゴアの娘が生き返ることに納得していないのだから、ソーがゴアの娘を託されるラストに関しても僕は納得していない。
最後、ソーは砂漠で一人でさまよっている身寄りのない子供を保護して、彼女と二人で生きていくべきだっただろ。
これならゴアとソー、二人の物語が小さく閉じることなく、外の世界に向けて広がっていったはずなのに。
ラストがこれなら、誰よりも多くを失ってきた男の終着点に、マジで声をあげて泣いていたと思う。
まとめ
好きな作品とはとても言い難いけど、だとしてもジェーンの再登場はとても嬉しくて複雑な気分だ。
キャラクターを大切にするMCUの気質が良い方にも悪い方にも働いてると思った。
誰も彼もを関係性の糸で繋げるこういう作劇って世界を狭くしがちだ。
アイアンマン3のときみたいに、見ず知らずの、観客からしても初めましての子供と交流するくらいの開けた世界が懐かしいよ。
宇宙という舞台こそが、そんな開けた世界を実現できるなんてことを昔は思ってたのにな。
その他こまごました感想
・ゴアの、影に潜って瞬間移動しながらの戦闘がかっこよかった。新生アスガルドでの一戦目以降あんまり披露してくれなくなるけど、もっともっと見たかった。(ファンタビの、姿くらましを連発しながらの高速戦闘みたいな快感があった。)
剣を地面に突き刺して陰から呼び出した怪物を使役するのもかっこいい。僕もネクロソードが欲しい。
あとエンドクレジットで名前を見るまでゴアがクリスチャンベイルだということに気づかなかった。クリスチャンベイルって映画によって人相が変わりすぎてて、あんまり一定のイメージがない。
・砕けたムジョルニアを使った戦闘も超カッコよかった。散弾として放ったり、敵の武器を絡め取って奪ったり、なんなら砕ける前より取り回しに応用が効くようになって強くなってない?
・ラッセルクロウもよかった。スカートをひらひらさせながら祭壇を降りたり、サンダーボルトを自慢げに振り回したりの芝居がかった仕草が最高。とても楽しそうだった。
・ソーのムジョルニアに対する元カノと一緒に飼ってた犬的な扱いは最高に面白かった。ソーに嫉妬するストームブレイカーの様子も最初は面白かったけど、繰り返されるにつれて白けてきたりした。
Dr.ストレンジのマントと違って嫉妬一辺倒なのが見てて飽きてくる。