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バットマン4部作(1989〜)の感想

ティムバートン監督作のバットマン(1989)から続く4部作を1日ぶっ通しで観たので、その感想を書く。

まず、僕のバットマン視聴履歴は
・ダークナイト三部作
・ザ・バットマン
・バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生
・ジャスティス・リーグ
・レゴバットマン・ザ・ムービー
・(レゴムービー1,2)
・(ジョーカー)
これで全部。どれも好きな映画だ。(バットマンvsスーパーマン、ジャスティスリーグはそんなでもない)

そして今日見たのが
・バットマン(1989)
・バットマンリターンズ(1992)
・バットマンフォーエヴァー(1995)
・バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲(1997)
の4作。さっそく個々の感想を書いていくので、ぜひ読んでいってくれ。

バットマン(1989)

ゴッサム・シティの闇の中を跳梁し、悪を粉砕するバットマン。女性フォトグラファーがその謎めいたヒーローの正体を突き止めようと奔走する。そんな中、バットマンは犯罪組織と対峙。組織の新たなボス「ジョーカー」と彼との間には、深い因縁があった。
(Googleトップのあらすじ)

語るべきはなんと言ってもジョーカーについてだろう。
今作のジョーカーはジャックニコルソンが演じてるんだけど、だいぶはっちゃけてて面白い。特に美術鑑賞のシーン。(ここでの無軌道な破壊は「時計仕掛けのオレンジ」を彷彿とさせる。)
絵画にペンキをぶち撒けたりしていたが、ここで行なっているのは権威の否定であり、それはまさに道化の仕事だ。
それに彼がジョーカーになって最初に行ったのは自分のボスを殺すことであり、ここにも権威の否定が見て取れる。(補足1)

補足1
しかし、ボスを殺した後に自分がボスの座に就くというのは残念だ。
今回のジョーカーは権威構造の破壊というところに至らず、個人をターゲットにするところから抜け出せていない。そのスタンスは人間的すぎて、ジョーカーの魅力である"Nobody感"が感じられなかった。
この問題は終盤の展開で顕著になるが、それについては以下で触れていく。

しかし、ヒーローであるバットマンがジョーカーと戦う為には、ジョーカーは市民に危害を加える存在でなければならない。そんな物語からの要請によって、彼は市民に対する毒ガス攻撃を行うことになる。
「パレードでお金を配りまくる」という彼の宣言に釣られて集まってきた貧困層の市民に毒ガスを散布する。このパレードは、自らの顔を溶かしたバットマンを誘き寄せるためのエサであり、それは私怨でしかない。
そしてその後の、ヒロインを攫う展開においては、既に権威の否定者としてのジョーカー(=道化)は完全に死んでいる。

終盤になって急に、かつてバットマンの両親を殺したごろつきはジョーカーだったのだという因縁が明らかになっていた。しかしその因縁は2人の関係を特別なものにしたりはしない。
今作には、ダークナイトのような、「社会の価値観の外側にいる道化が、同じく社会制度の外側で悪を裁くバットマンに正義を問いかける。」みたいな鏡像関係はなく、互いに対して私怨を持った2人の痴話喧嘩でしかない。そんな話にバットマンとジョーカーを使うなよと僕なんかは思う。

今作のジョーカーの魅力は「ダークナイト」や「ジョーカー」、「レゴバットマン」での彼には遠く及ばず、「スーサイドスクワッド」(2016)での彼よりは魅力的。くらいであった。

総括して、本作はジャックニコルソンがウキウキで美女を怯えさせているのを見る映画だった。

バットマンリターンズ(1992)

ゴッサム・シティに現れた謎の怪人「ペンギン」。彼はシティの実力者と手を組み、街を支配しようと画策していた。そして彼の野望はやがて、バットマンの知るところとなる。しかしバットマンの前に、「キャット・ウーマン」と名乗る新たな敵も現れる。
(Googleトップのあらすじ)

ゴッサムシティが狭い。
ここで生活している人がいるとはとても思えず、こんな街がどうなろうと知ったことではないと思った。特に冒頭の、巨大おもちゃ箱を突き破って世紀末な男達が群衆に襲いかかる襲撃シーン。
(自分の中でダークナイト以降のバットマンがスタンダードになっているので、ティムバートンのドールハウス的な世界観が合わない。)

キャットウーマンの覚醒シーンは、その前の女性蔑視な会議シーンの嫌さも相まって見応えがあった。抑圧からの解放のカタルシスは、ヴィランのオリジンの十八番だろう。
社会を守ろうとするヒーローのオリジンは自制と結びつきやすく、一方で社会を破壊するヴィランが花開くシーンは解放と結びつきやすい。後者は「ジョーカー」なんかがその典型例だ。

ペンギンやキャットウーマンの境遇や、それに相対するバットマンからは、「悪党から町を守るのがバットマンだけど、町が終わってた場合それって機能すんの?」みたいな論点が見えてきて面白い。この論点はフーコーの考えにも通じる。曰く、正常異常の境界線は社会の形によって引かれている。(補足2)
では、町全体が終わってる場合バットマンは何を守るわけ?

補足2
赤子だったペンギンは両親によって川へと捨てられる。秘書だったキャットウーマンは、会社の幹部連中に軽んじられ、都合が悪くなったら処分される。
こんなゴッサムシティにおける市民と敵の違いって何?という話。
この議論はザ・バットマンに引き継がれる。
フーコーは、パノプティコンとか言えば厨二病に罹患したことがある者には馴染みがあるだろう。

キャットウーマンがマックス(かつてキャットウーマンを処分した男)への復讐をいよいよ果たそうというシーンでの、バットマンの「なぜ殺す?」という説得も、その前にバットマンが大男を不敵な笑みと共に爆殺したシーンを見ちゃってるから、誰が何言ってんだよとしか思えない。これでキャットウーマンが"改心"する様な展開じゃなくて本当によかった。

悲しき化け物。社会から爪弾きにされる者達の悲哀。みたいな所から話が進んでなくて、バットマンは彼らの物語に介入せず、彼らの最後を見届けるくらいしかしていないのが残念だった。
鳥にも獣にもなれないコウモリ、異端者としてのバットマンという側面をもっと押し出していればまた違ったんだろうが、リッチなヒーロー程度の描き方しかされていない今作のバットマンは、彼らと交わすための言葉を持っていない。

ティムバートンは抑圧された者達を耽美に描きたかっただけで、上で挙げた「バットマンは何を守るべきなのか」みたいなところにはあまり興味がないのだろうか。

追記
1番面白かったのはペンギンの選挙演説がバットマンにジャックされるシーン。
ペンギンの本性を知った市民達がみんなして彼にトマトを投げつけていたけど、その前はみんなで彼を応援してたじゃん。
何?みんなペンギンを応援してはいるものの、一応トマトを懐に忍ばせて集会に臨んでいたの?どんな市民?

バットマンフォーエヴァー(1995)

ゴッサムシティ。狂気にとらわれた元検事の怪人トゥー・フェイスが銀行を襲撃。一方、ウェインのもとで働く研究員が怪人リドラーと化す。やがて怪人たちは結託し、マインドコントロール装置による街の乗っ取りを計画。ウェインと愛を確かめあった女性博士を誘拐する。
(Googleトップのあらすじ)

シリーズ3作目だけど、特に前作との繋がりはない。監督はティム・バートンからジョエル・シューマカーに代わり、バットマン役もマイケルキートンからヴァルキルマーに交代。トップガンマーヴェリックを見た後だと、イケイケなヴァルキルマーに感慨を覚える。

リドラー君……。
ウェイン産業に新しく勤め始めたニグマ君は憧れのブルースウェインにおざなりな握手をされたことでブチ切れ。ヴィランのリドラーとして生まれ変わるのだった。
軽んじられた理系のオタクはいっつもヴィランになる。(例:アメスパ2のエレクトロ、アイアンマン2のキリアン)
奴らのことが不憫で仕方ねえよ。乾杯。

トゥーフェイスとリドラー、バットマンとロビンの、対になった師弟コンビ。この構図好き。
リドラーがヴィランとして成長していくシーンが良かったので、そこをもっと見たかった。トゥーフェイスのオリジンがあれば彼とリドラーの関係の深掘りもできそうなんだけどな。

前作ではキャットウーマンの復讐を一般論で諌めようとしたバットマンにムカついていたが、今作のロビンの復讐に対するバットマンのスタンスはそこよりも進歩している様に感じた。(どうしても復讐したいならしょうがないね)
しかし前作にあった悪役の悲哀とかは減退していて、普通の話になっちゃったなという感じもする。
リドラー役のジム・キャリーのはしゃぎっぷりが可愛かったな、くらい。

バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲(1997)

ゴッサム・シティを氷の王国に変えるという野望を抱く「Mr. フリーズ」。彼はかつてノーベル賞に輝くほどの高名な分子生物学者だったが、研究所の爆発事故で凍結液を浴び、身も心も氷のように冷酷になってしまった。そんな彼に、バットマンが新たな仲間たちと共に立ち向かう。
(Googleトップのあらすじ)

ジョージクルーニーの黒歴史ってこれかあ!
スーツを身に纏うバットマン(ジョージクルーニー)とロビンのファーストカットで、腕、エンブレムのアップときて、謎にお尻のアップが映されるのがめちゃめちゃ面白い。

冒頭のMr.フリーズチームとバットマンチームでの謎のアイスホッケーも、ポイズンアイビーのフェロモン攻撃も面白い。
そしてパーティーでアイビーを競り落とそうとする群衆(バットマン含む)の印象が悪くて、彼らが襲われるシーンをどう見れば良いのかよく分からん。

世界中を凍らせようとするMr.ブリーズと世界中の植物を救いたいポイズン・アイビーのタッグは、2人の理想が両立し得ないことに気付いていないのか?
目下最大の敵であるバットマンを排除するために一時的に手を組んで、2者間の決着は後でつけようという政治的判断、というわけでもなかった。

それにしてもフリーズとアイビーのキャラは残念だ。
Mr.フリーズは妻を病から救いたい。
ポイズン・アイビーは植物を救いたい。
我欲によって動いているわけじゃないが人命は軽んじている2人は、ともすれば重層的なキャラクターにもなり得たと思うんだけど、なんでこんな感じになっちゃってるんだろう。

考えてみると彼らの魅力の無さは、バットマン側の対応に原因がある気がしてきた。
ハンターハンターのゴンがノブナガに言ったみたいに「何でその優しさをお前が殺した人達に分けてあげなかったんだ!」みたいなこと言えばいいのに、バットマンもロビンも、ヴィランの優しさの部分には特に触れず、かといって彼らの非道な行為に憤ったりもしない。機械的にヴィランの元に赴き退治しようとするだけ。
これでは魅力が生まれる余地がない。ヒーローとヴィランのやり取りにおいて、今作のバットマンはスカシしかしてない。それは残酷だろう。もっとヴィランに興味を持ってやれよ。(補足3)

補足3
バットマンが俺たちに興味を持ってくれないというヴィラン達のこの無念は、後のレゴバットマンが成仏させることになる。 

ていうかロビン、話進んでるのに1人だけフェロモン攻撃を克服できずアイビーに執着し続けてるのが鬱陶しいったらなかったぞ。
きっと、「ロビンはバットマンのおまけでしかないのか?(いや違うだろう)」って疑問を呈したかったのだろう。
しかし、尺の大半を洗脳された状態で、しかもバットマンに対してはっきりと敵対するわけでもないちょっとした反抗期くらいの感じでいて、出撃前に口頭で諭されて正気を取り戻すってのは最高にダサかったし最高におまけだったよ。

そしてバットガールはマジで何だったの?ロビンですら持て余してるのに何故キャラを追加した?

しかし、輝かしきジョージクルーニーの人生における、数少ない汚点、彼の恥ずかしい部分を覗き見る。という倒錯した興奮は得られた。
「へぇ〜、ジョージって卒業文集での一人称、『オレ』なんだ」

追記
ジョージクルーニーはこの頃から既に、アクションシーンになると激烈にダサくなっていた。その後の彼の滑稽なアクションシーンは「ラスト・ターゲット」に顕著。(ただ面白い映画ではある)

まとめ

好きな順に並べると
リターンズ>>Mr.フリーズ>バットマン(一作目)>フォーエバー
という感じ、しかし全体として特別面白いとは思わなかった。魅力的な敵が居ても、彼らとバットマンの関係性が淡白だ。ヒロインの扱いもバットマンの横に置いとく交換可能な物体(ブロンドの髪の毛付き)くらいでしかない。事実一作毎にヒロインは交換されていた。

DC映画ではないけれど、2002年のスパイダーマンってヒーローものとしてエポックメイキングな一作だったんだろうなと、あれ以前のヒーロー映画を初めて観て思ったりした。(ロボコップは除く)


ここまで読んでくれてありがとう、それではまたの機会に。

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