「呪術廻戦0」感想
それぞれ別のグループの友人2人に勧められたので観に行った。原作は0も含め最新話まで既読、アニメはちょっと(1,2話)しか観てない。
「ちゃんと映画化されてるな」とは思ったけど、期待していたほど面白くはなかった。おすすめのされ方が激しすぎて過剰にハードルを上げてしまった感はある。
良かった点
・戦闘シーン
・タイトル前に追加された朝ご飯のシーン
戦闘シーンはかっこよかった、特にミゲルの黒縄を使ったロープアクション、ビョンビョン飛び回ってて見てて楽しかった。ミゲルすげー!それを圧倒する五条先生すげー!でもなんとか凌いでるミゲルやっぱすげー!
ってなった。
朝ご飯のシーンが何で良いと思ったのかは次に挙げる良くなかった点と関係してくるのでそこで触れる。
良くなかった点
・戦ってばっかりじゃね?
原作では各話で区切られていた話が映画では連続して描かれていたわけだけど、そうするとどうしても全体の構成が「戦闘の準備→戦闘→戦闘の準備→戦闘」の繰り返しに見えてきて単調に感じた。
もっと言うと、「この学校、全然楽しそうじゃない」と思いながら見ていた。五条先生が授業をしている様子が1ミリも想像できない。教室の前のあの黒板、一度でも使われたことあるのか?
なので乙骨が真希達に対して使う「友達」という表現もなんかズレてるように聞こえる。日常を共有する友達というよりは、戦場での緊張状態を共に体験する「仲間」の方がしっくりくる。彼らの関係は友達と呼ぶにはあまりに切迫して見えるし、戦闘という一方向に特化した生活は豊かとは言えない。実際、今作において乙骨の内面の変化や他者との関係性の変化は戦闘の中でしか起きていない。戦闘ばかりの映画が悪いというわけじゃない(僕はパニッシャー:ウォー・ゾーンやジョン・ウィックが大好きです)。でも乙骨くんが戦闘の中でしか自己実現ができないというような荒んだキャラクター造形をされていない以上、戦闘の連続という構成がこのキャラクターに合っているとは思えない。
まとめると、シーンの追加をするのであればそれは京都校側の戦闘シーンなどではなく、乙骨達の授業風景や寮での暮らしぶりなど、日常描写の補強であるべきだと思った。
そしてそういう意味で高専での生活の一端を見せてくれたタイトル前の追加シーンが良かった。
夏油と乙骨の対立構造
他には、大義に基づいて行動する夏油に対して、乙骨くんには全く思想がないのが面白いなと思った。
その対比が如実に現れるのが夏油が宣戦布告をするシーンだ。このときの夏油と乙骨両者の言い分をざっくりまとめると下のようになる。
夏油「無能な非術師がのさばり呪術師が搾取されている現状が我慢ならないので非術師を皆殺しにします。ところであなたの友人は猿です」
乙骨「あなたの言ってることは良くわからないけど、友達を馬鹿にされるのは我慢ならない」
いやいや乙骨くん、非術師を皆殺しにするって点にも反対してくださいよ、頼みますよ。
というのが非術師である観客の抱く素直な気持ち。
でも乙骨くんはそういう人なんだからしょうがない。周囲の人間と関わりたい、生きてて良いと思いたい。そう願う彼にとっての周囲の人間は、この時点では同級生の3人と五条先生、そしてリカちゃんしかいない。現状の彼にとって世界は高専のこのクラスと同じ大きさをしている。
そんな彼には夏油が言っている事はマジで意味不明だったんだろうなと思う。そして夏油がクラスの仲間に、つまり彼の世界に危害を加えることで乙骨には初めて世界の敵と対決する動機が生まれる。
僕はこの対立を
「大衆の反逆的現状認識に基づいた過激派人種主義vs田舎ヤンキー的仲間意識」
という風に解釈した。
そしてそう考えると大局的な視点を持たない乙骨くんが自分の身を犠牲にした(する覚悟で放った)一撃で勝利を収め、その後にスッキリした気持ちでリカちゃんとのお別れに臨むという展開は納得度が高かった。
注釈【大衆の反逆】
オルテガ・イ・ガセットの書いた大衆の反逆は乱暴に要約すると「何か大衆くん人数が多いってだけで我が物顔でのさばっててウザいんですけど?少数のエリートのおかげで今の生活があるって事忘れてなーい?」
って感じの本だ。夏油の思想の根底にある呪術師と非術師の不均衡な関係についての認識と通ずるところがあると感じた。もちろんこの本では「大衆を皆殺しにしよう!」なんて結論は出てこない。
まとめ
どうしても漫画で読めば良くね?という感想になってしまう。言ってしまえば期待はずれだった。
覚醒した乙骨くんがめっちゃDV彼氏っぽいのは面白かった。「蝶より花より丁重に扱え」の辺り、特にその後の「怒ってないよ」がヤバい。声が付くことでDV彼氏の呪力が爆発的に跳ね上がっていく。