見出し画像

「グッバイ、レーニン!」の感想。嘘についての最高の映画。

2019/9/24撮影

親戚のおじさんは、壁の崩壊直後にベルリンに行ったことがあるらしい。まだ僕が生まれていない頃の話だ。僕にとっては教科書の中の出来事が、ある人にとっては個人史として記憶されているというのは不思議な感じがする。
ベルリンには僕も行ったことがある。おじさんが訪れてから30年近くが経ってのことだ。残った壁は平和を(風刺的に)訴えるグラフィティのキャンバスとして使われていた。

さて、「グッバイ、レーニン!」の話をしよう。
壁の崩壊直後の一時期を描いたこの映画が、嘘についての最高の映画であるということを今から書いていく。

雑なあらすじ

ベルリンの壁が壊されてから東西ドイツが再統一されるまでには、約1年のタイムラグがあった。この映画は主にその期間に焦点を当てている。

主人公のアレックスは東ベルリンに住む青年。母親は父親が家族を置いて西に亡命して以降、社会主義活動に熱心になっていた。
アレックスはある日、反体制デモに参加するんだけど、それを見た母親が心臓発作で倒れてしまう。
昏睡状態の母が目覚めるころには、ベルリンの壁は崩壊してしまっていた。
まだ弱っている母親にショックを与えないために、アレックスは母に「壁は壊れておらず、東ドイツも社会主義も健在である」と思い込ませるための芝居をすることになる。

笑えるシーン二つ

基本的には、「母親が壁の崩壊に気づきそうになる→何とかごまかす」を繰り返すドタバタコメディーだ。いや、雰囲気としてはシュールっぽいか。とにかくコメディとしてめちゃくちゃ面白い。
中でも特に笑ったシーンを二つ紹介させてほしい。

まずは近所の人たちを集めて母の回復を祝うシーン。もちろんみんなグルになって、東ドイツが健在であるかのようにふるまっている。みんなで東ドイツを称える歌を歌ったりして母を楽しませるんだけど、母がふと窓の外を見ると、ビルにでかでかとコカ・コーラ(資本主義の象徴)の垂れ幕が張られていた。

もう一つ好きなシーンは、母親がついに部屋の外に出てしまうシーン。だいぶ回復してきたので、一人でどこまで歩けるか試してみようと部屋の外に出てしまう。すると外にはIKEAのポスターだったりおしゃれな車だったりの、すっかり資本主義化した街並みが広がっていて、挙句の果てには通りの向こうから、撤去されたレーニン像がヘリに吊られ、こちらに向かって飛んでくる。

どちらのシーンも本当に最高で爆笑した。特にレーニン像のシーンは荘厳なのか滑稽なのか分からなくて、笑いながらも何故か畏怖の念を感じてしまう。映画史に残る名シーンだと思う。
これらに対する主人公のごまかし方も酷くて、実はコカ・コーラは東側の発明なのだと言ってみたり、街並みが西っぽくなっているのは、東に来たがっている西の難民を受け入れてあげているからだと言ってみたりする。

当然のことながら、この映画はただ笑えるだけのものではない大傑作だ。でもまず、単純にめちゃめちゃ面白いということをはっきりさせておきたかった。

宇宙というモチーフ

この映画には宇宙が重要なモチーフとして、いたるところに使われている。
アレックスは子供のころに、東ドイツ初の宇宙飛行士、S・イェーツにあこがれ、宇宙飛行士を将来の夢にしていた。数年後、アレックスは昼間からビールを飲む冴えない青年になってしまったが、部屋にはまだS・イェーツの写真が飾ってある。壁が崩壊してからのアレックスの仕事は衛星放送のアンテナの取り付けで、同僚は趣味で『2001年宇宙の旅』を模したビデオを撮っている。

この宇宙というモチーフにはアレックスの夢や理想といった意味が込められている。
大好きだった父親が女と一緒に西側に亡命するという裏切りを経験した幼いアレックスは、代わりにS・イェーツに立派な父親像を見出し、宇宙は彼にとって夢だったり理想だったりの「善いもの」として価値観の支柱になった。

アレックスにとっての東ドイツ

芝居を始めるまで、アレックスは反体制デモに参加するなど、東ドイツのことをよく思っていなかった。幼いころにあこがれていた宇宙飛行士にはなれそうもなく、今のアレックスは昼間からビールを飲んでだらだら過ごす冴えない青年だ。母が政府に陳情書を送っても生活は何も変わらず、アレックスはテレビに映る政府の高官達に不信感を抱いている。そこにはかつて憧れたS・イェーツのような大人は映っていない。
ならば、壁の崩壊はアレックスにとっては喜ばしい事態のはずだ。実際、壁が崩壊してからしばらく、アレックスは彼女のララと混沌とした世界を楽しんでいた。

ここでの、どんちゃん騒ぎを抜け出した二人が崩れかけた建物の縁に座り込んで葉っぱを吸い、ビールを飲むシーンが好きだ。退廃的というわけでもなく、変化していく時代への静かな期待が伝わってくるみたいだ。

しかし、芝居の規模が大きくなって近所の人まで巻き込むようになると、アレックスはかつての知り合いの悲惨な現状を目の当たりにする。
アレックスの姉などは、壁が壊れたらすぐに大学を辞めてバーガーショップの店員になり、そこで出会った男と再婚するという順応の速さを見せていたけれど、アレックスが久しぶりに会った校長先生は、仕事を失って飲んだくれになってしまっていた。環境の変化についていける人ばかりではない。
そういった人たちにとってアレックスの芝居は新しい時代の混沌からの避難場所になっていた。かつて母の語る政府への要望を書きとって、陳情書を作製していた女性は、アレックスの芝居の一環で、どこにも届けられることのない嘘の陳情書を書きとっている間に感極まって泣いてしまう。自分は社会をよくしようという、意義のあることをしていたのだという誇りを思い出したのだろう。彼らは、自分たちのこれまでしてきたことは無価値であるという否定をされているように感じていたのだ。

では、もともと東ドイツにうんざりしていたアレックスはどうなのか?
アレックスが、母が家に蓄えていた東ドイツのお金を西側のお金に換金しようとすると、もう交換は受け付けていないとはねられてしまう。
その時、アレックスはこれまでの自分たちの労働に価値はないのだと否定されたことに対して怒る。アレックスにとっても、西側の世界は自分たちに価値がないと否定する存在になっていた。
姉から、町で自分たちの父親を見かけたという話を聞いたとき、アレックスの頭の中で、父親はバーガーとポテトをむさぼる太った男としてイメージされる。これは資本主義への嫌なイメージを、自分たちを裏切った父に重ねているのだろう。
東ドイツにうんざりしていたアレックスは、芝居を続けるうちに東ドイツのことが好きになっていたのだ。

しかしそれは実際に存在した東ドイツではない、それは、幼いころにアレックスがあこがれた、S・イェーツを宇宙に送り出すような理想の東ドイツだ。幼いころの理想を取り戻したと言ってもいいだろう。
アレックスは自分の作る東ドイツの芝居の中に、自分が誇りたかった東ドイツの姿を見出していたのだった。そして換金の一件以降、アレックスの描く東ドイツはその傾向を強くしていく。

換金が拒否された後に、紙屑になったお金をビルの上から投げ捨て、夜のベルリンの街に向かって叫ぶシーン。ここでアレックスが真似ているのは「2001年宇宙の旅」の冒頭の猿だろう。
「2001年宇宙の旅」で、猿達はモノリスによって蒙を啓かれ、文明を生み出すようになった。アレックスがそれを真似するこのシーンは、アレックス達のこれまでが(文明を持たぬ猿のように)否定されてしまったことを自虐的に叫ぶシーンだ。

母の嘘

映画の後半で、母は自分がついていた嘘を告白する。父は女と一緒に西側に逃げたと言っていたが、それは嘘だというのだ。
実際には家族全員で西に亡命するつもりで、父は先に出発していたのが、自分は土壇場になって怖くなってしまったのだと。
つまり母はもともと東ドイツの社会主義を良いと思っていなかったということだ。父が居なくなって以降母が社会主義の活動に熱心になったのは、残った自分の判断を合理化するためでもあったのだろう。
しかし子供たちに真実を語った母は、あの時の自分の判断は間違っていたという。
アレックスはそこで母親の話を聞き続けることができなくなり、その場を立ち去ってしまう。芝居の中でかつての東ドイツを素晴らしい国として捉えなおしていたアレックスにとって、父と一緒に西ドイツに行くべきだったという母の言葉は、今の世界同様に自分を否定する言葉に聞こえてしまう。
アレックスが立ち去った後に、母親は姉にまだ父のことを愛していると言う。死ぬまでにもう一度だけ会いたいと。

アレックスの再統一

アレックスはなぜ芝居をやめる決心をしたのか。それは父親と会ったことで、アレックスの中で一つの決着がついたからだ。
西側に行った父は家族を裏切った嫌な奴じゃなくて、いい人間だった。
父が西側で作った子供達、つまりアレックスの異母兄弟はかつてアレックスが見ていたのと同じアニメを見ていた。ここで宇宙のアニメを見ていたというのが重要で、父が、そしてその子供たちが実際には自分と同じ理想を持っていたということが示唆されている。
アレックスにとって西は自分を否定するものだったが、そうとも限らなかったと分かる。
だからアレックスは東西を再統一することを決意する。
しかしこれはアレックスの再統一なので、現実通りの、西に吸収されるという形にはならない。

アレックスの憧れだったS・イェーツは今ではタクシードライバーになっていて、もう誰にも宇宙に行った時のことを語らないけれど、アレックスの作った虚構の中では、彼は東ドイツの代表として理想の世界について語る。そこで語られる再統一後の世界は、資本主義でも社会主義でもない、未だ存在していない形の世界だ。みんなが理想に向かって歩を進め、困っている人がいたら手を差し伸べてあげる、誰も無価値として否定されることのない世界だ。

母の最後の嘘

母は最後にもう一つだけ嘘をついた。というか、本当のことを隠した。母はアレックスが父を連れて病室に向かっているころに、アレックスの彼女のララに、自分が昏睡していた頃に起こったすべてについて聞いてしまっていた。しかし母は自分が真実を知ってしまったことをアレックスから最後まで隠し通した。
なので、この映画はアレックスに「母を騙し通した」という勘違いをさせたまま終わる。
アレックスが作り出した理想の再統一はしょせん虚構で、実際には東側のすべては無価値なものとして否定されるだけだった。でもアレックスは、母親を守り通せたのだと思っている。映画の最後に、アレックスは母の遺灰をロケットに詰めて空に打ち上げる。実際にはアレックスのロケットは宇宙には届かないけど、アレックスにとって宇宙は理想の世界の象徴だ。アレックスは母を理想の世界で暮らさせてあげようとしたのだ。そしてアレックスにとってはそれは成功している。母はアレックスの虚構を守ったのだ。
では真実を知ってしまっていた母自身は何を思っていたんだろうか。

母親は、西からの難民が来ているというでっちあげを聞いたときに「うちにも受け入れてあげましょう」といっていた。そんな母は、アレックスが作った再統一のニュースを見て、息子も自分と同じ理想を持っているのだと知ることができた。
『みんなが理想を目指し、困っている人がいたら助けてあげる』アレックスが騙った偽の東ドイツは、アレックスが誇りたかった理想の東ドイツであり、母が願った理想の東ドイツでもあったのだ。

たいていの映画では、嘘が全て解消することによって相互理解が果たされる。「本当の自分を認めよう!そして認め合おう!」みたいな感じだ。そこでは嘘は最終的には否定されるべきものとして扱われている。しかしこの『グッバイ、レーニン!』は、嘘を理想と読み替えることで、嘘を肯定的に描いて見せた。二人が嘘をつき、その嘘は二人が同じ理想を持っているということを示した。だから僕はこの映画が好きだ。映画という虚構は嘘を肯定してこそのものだろうと思う。

この映画はただ嘘を賛美するだけのものでもない。
アレックスは芝居の中で、ララの父親の仕事を教師だと偽った。本当はパン屋で、しかも既に亡くなっているのに。ここでは嘘で他人の人生を書き換えてしまうことの身勝手さが示されている。
つまりこの映画は、アレックスが母親についた嘘も、母親がアレックスについた嘘も、あくまでも身勝手な物として描いている。
身勝手な嘘は誰かを傷つけることもあれば、誰かを救うこともある。

偽の再統一のニュースを見ながら、母は「すばらしいわ」と言った。そのとき、彼女のまなざしはテレビ画面ではなく、アレックスの方を向いている。自分の作った再統一を誇らしげにみるアレックスの方を。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集