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常識ってなんだったかまた考える


「常識を破れ!」
「常識を乗り越えろ!!」

こんな感じで今日常識は軽視されています。なんだか固定観念とか偏見なんかと同じ意味で常識を使っている人もいるようです。でも常識とは固定観念とは真逆のものだ思うんです。

ぼくの考える常識は乗り越えたり、破ったりしなければいけない壁ではない。むしろぼくたちの生活を極端な考えから守ってくれる原理です。

今回の記事は、前に中野剛志の本を紹介したときに語ったものの発展(焼き直し?)です。


常識がなぜ大切なのかを語りたい。よければ最後まで読んでくださいませ。そういえば3月に中野剛志が小林秀雄についての本を出しましたね。これは読むっきゃない。



◆身も蓋もない話をしよう


以前ぼくは、常識とは不変の理念を変化し続ける現実に適応する働きと言いました。これだけだとよくわからないかもですが、いってしまえば身も蓋もないことです。なぜなら常識とはコモンセンス、誰もがそりゃそうだろという感覚のことだから。

たとえば「人はぶっ倒れるまで勤勉に努力し続けなければならない!」と語るマッチョな人がいたとします。かと思うと他方で「どうせ死ぬのだからその日その日楽して生きればいい」と語るニヒリストがいたとする。この2人は正反対の意見、行動の原理をもっている。両者はかみ合うことがない。

けれどもどうでしょうか。
どちらとも極端じゃないっすか。
常識は、そこで身も蓋もないことを教えてくれる。
それはなにか。

過労で疲れきってたら休めということだ。
逆に寝てばっかだったら運動しろということだ。

楽に生きたいからといって毎日毎日引きこもって寝てばかりをすれば、かえって身体を壊す。かといって倒れるまで身体を酷使してもなにも得られない。この拍子抜けする当たり前の基準を、あまりにも現代人は軽視してはいないでしょうか。

この方法さえやっときゃバッチグーと思い、現実に起こる状況の判断をおろそかにする。それはいまやるべきことなのか。一歩立ち止まって考えることが求められます。


◆絶対的に正しい方法なんてない


いま言った身体の例はほかならぬお釈迦さまが言ったとされます。

釈迦の時代、修行僧は何人もいましたが、彼らは徹底的に身体を痛めつけてました。いわゆる苦行というやつ。そうして苦行をかさねることによって悟りを得ようとした。
かと思えば、貴族は享楽的な生活をすごしていた。釈迦のすごいのは、この2つをちゃんと経験して、どちらとも極論であると気づいたことです。べつによくわからない超能力をもっているから尊敬されたわけではない、とぼくは思う。

思うのですが、孔子や釈迦、ソクラテスは人間離れした超人なんかではなく、常識人だったはずです。ご承知の通り彼らは一冊も本を書いてませんが、彼らの言行録を読むとなんだかそんな気がします。

論語で孔子は矛盾したことを言ってたりする。それは孔子の思想が穴だらけだったからではなく、話す相手の状況をよくみて、その相手にあった処方箋を出したからだろう。新約聖書やコーランを読んでないのでわからないですが、キリストもムハンマドもそうだったんじゃないかなあ。

もちろん彼らは巨大な知性も持っていたが、どこか過激さから離れた余裕を感じる。この余裕は常識から来ているはずです。


◆常識の磨き方


さて、ここで最初に述べた常識の定義、「不変の理念を変化し続ける現実に適応する働き」ですが、なんとなく伝わったかと思います。話す相手の状況をまったく無視して、人間はこう生きなければならないんだと抽象的な一般概念を演説する人は常識がない。

最後にどうすれば常識が磨けるのか考えたいです。
これは難しい問いです
これさえやっときゃ常識がつくと言った瞬間に常識は死ぬからです。
どうすれば常識は磨かれるか。やはり地に足つけて生活をするということでしょう。

寒いときはコートを着ればいい。
暑いときは薄着になればいい。
理念を現実に照らし合わせるのであって、現実を理念に合わせるのではない。いまコートを着るべきか、パンイチでいいのかは、寒さの肌感覚がなければいけない。

この理念、この法則はいまこの私に適応できるものか。
その吟味を生涯つづけていきたいですね。

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