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100年後の世界に何を遺すのか

100年前は大正時代。大正時代の人で、2025年の今の世界を想像できた人がいたでしょうか?


大正時代を振り返る

大正時代(1912~1926年)は、政治や文化に大きな変化が見られた時期でした。

「大正デモクラシー」では、ちょうど今から100年前の1925年に普通選挙法が成立し、満25歳以上の男子に選挙権が与えられましたが、女性の選挙権はまだ認められていませんでした。

「大正ロマン」は大衆文化の隆盛を指し、モダンガールや職業婦人が登場しました。社会への女性進出がこの時期に始まりました。

また、第一次世界大戦(1914~1918年)で日本は好景気を迎えましたが、戦後は不況に陥ります。

1920年には国際連盟に加盟し、箱根駅伝の第1回が開催され、日本初のオリンピックメダルも話題となりました。

当時の生活では大卒初任給が50~60円、米1升が50銭ほどでした。現在と比べ物価は大きく異なり、当時の市民生活はシンプルである一方、急速な変化を体感した時代でした。

このように大正時代を簡単に振り返ると、女性の躍動、スポーツの社会的意義の高まり、生活の急速な変化など、今の人たちにとって、いい影響のきっかけを作ってくれた時代だったように思えます。

100年後と繋がる気持ち

現在我々は100年後の人たちのためになるようなことをやっているのでしょうか。

100年後の2125年の人たちが2025年の今を振り返った時に、「あの頃はまだ良かった」と言われるようであれば、100年後は残念な社会になっていることになります。

逆に、「あの頃の人たちはよくやってくれた」となれば、今よりいい時代になっているという理屈になります。

100年後の世界に何を遺すのかを具体的に考えることは難しいことですが、「あの頃の人たちがやったことは間違っていた」と思われることを想像することは案外簡単だと思います。

今さえ良ければいい。
自分さえ良ければいい。

個人主義を通り越した利己的な考えが蔓延はびこるような社会を私なら受け継ぎたくありません。軍部の一部の利己のために戦争社会になりました。これが社会が利己のかたまりみたいになったら一体どんな社会が待っているのでしょうか。個人主義と利己主義は紙一重です。

もし私が2125年の人間なら、「和を以て貴しとなす」社会を受け継ぎたいです。

「和を以て貴しとなす」の「和」には縦横の繋がりがあると思います。周りの人と協調し合うのが横の「和」で、世代間・時代間で連携し合うのが縦の「和」です。

現代は子供が成人するまでは親の責任と法律で決まっていますが、昔は孫の代までは自分の責任という考えがあったようです。仮に昔の人が人生100年時代の今に生きているとすれば、子、孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)までの5世代100年分が自分の責任ということになってもおかしくありません。

100年後の人々のために何ができるのかを考えた時に、私たちが抱える問題を今のうちに解決しておきたいと思うのは自然な気持ちだと思います。現状の問題を放置して、解決を先送りすれば、さらに悪化した状況を未来に受け渡すことになりかねません。

私が個人的に早いうちに解決できればいいと考えているのが、「アレルギーなどの現代病の問題」と「社会の病理としての心の病」です。人口減少とか防衛問題とかは、私にとっては問題が大きすぎて身近に感じられません。

アレルギーや心の病はとても身近な問題として切実です。

現代病の環境要因を取り除いたらどうか

花粉症やアトピー性皮膚炎や喘息などは、現代人の身体の変異によって起こったものではありません。環境の変化によってもたらされているものです。これらの病気以外にも、環境要因によって、苦しい思いをしている人はたくさんいます。広い意味で、現代病と言ってもいいと思いますが、環境要因を取り除くことによって、救われる人はたくさんいると思います。

専門的なことは専門家にお任せするとして、現代病の解決の根っこは自然を大切にする気持ちではないでしょうか。もし地球に気持ちがあるとすれば、自然がどんどん減ってきて、寂しい思いをしているかもしれません。

現代は人工物にまみれた生活が当たり前になっていますが、それが人間の本来のあり方なのかを問うことが必要だと私は考えています。人工と自然のバランスはどうあるべきなのかを考えるバトンを、次の世代から次の世代へと渡していくことが、縦の「和」の繋がり方のひとつでもあると思います。

念のためことわっておきますが、人工を否定しているのではありませんし、自然回帰を謳っているわけでもありません。人工と自然のバランスのほどよい具合というものが気になっているだけです。

楽しく食べることが心の病を防ぐこともあるのではないか

誰でも体を壊すこともあれば、病気にもなります。でも心のこととなると、自分は心の病とは無関係と思っている人も中には少なくないようです。

心の病の問題を心の弱さとかストレス耐性の問題として安易に片づけてしまう強者を中心とした社会だと、心の病は社会の片隅に追いやられてしまいます。そうなってしまうと社会は残酷なまでに冷たいものになってしまいます。

誰でも心が弱ることもあれば、ストレスに耐えられない時もあります。誰でも心の病になる可能性を持っています。

現代社会においては、心の病の発症率は昔より高いと私は考えています。脳の障害などによる病に加えて、アレルギーと同じで、社会的な要因によって、心が病んでしまう人もたくさんいます。

心の病にならなくてもいい人が社会のせいで病気になっている。私は社会的要因で発症している人を社会の問題の代弁者だと考えています。

それはともかく、横の「和」の繋がりが希薄な社会になっていることは周知のことです。

日本社会は古くから米文化です。米文化でなければ、「和をもって貴しとなす」の精神は生まれなかったのではないでしょうか。お米は一人で作れるものでもないし、一人で食べるために作られたものでもありません。

大釜で米を炊いて、みんなで食卓を囲って食べる。ここに「和」の原点があると思うのです。同じ釜の飯を食うと絆が生まれることは、どんなに時代が変わっても、変わらない人間らしい温かい一面です。

ご飯を食べれば元気が出ます。家族や仲間と一緒に楽しく食べればもっと元気になれます。温かいご飯のような「和」の社会を取り戻していくことは、心の健康にとっても大切です。子ども食堂や一人住まいのお年寄りが集えるカラオケスナックを増やすなどして、おいしさと楽しさの総量が社会に増えていけば、元気になれる人も増えていくと思います。

少し強引ですが、和食文化を、人の「和」を作る食事文化のことだと再定義することもできると思います。

自分の時間を大切にする時代にあって、「和」の食事をもう一度習慣化し、社会の当たり前にする。

「和」の食事文化が当たり前になるのに、もしかしたら100年かかるかもしれませんが、私も身近なところで、家族や仲間ではなるべく一緒に食事をするようにしています。

100年後に思いを巡らせ、思いを繋げようとすることの鍵は「和」にあると思います。そして、私が100年後の世界に遺すものをひとつ挙げるとするならば、みんなで一緒に楽しくご飯を食べる習慣としたいと思います。

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日出丸
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