薩摩出身の世界初の日本語教師ゴンザが、桜島が日本一の山じゃっどと教えていたらw
江戸時代の1736年、薩摩出身の漂流民ゴンザが世界で初めて日本語学校の教師になりました。
もちろんゴンザの前にも日本語を教えていた人はいました。同じ漂流民の伝兵衛(デンベエ)もロシアで日本語を教え、もっと前には遣隋使や遣唐使が海外で日本語を教えていたかもしれません。
でも、史実的には世界初の日本語学校がペテルブルク科学アカデミー日本語学校ということらしく、そこでゴンザが日本語教師に任命されたので、世界初の日本語学校教師はゴンザと言って差し支えなさそうです。
ゴンザが日本語教師になったのは、1736年、18歳の時でした。
ゴンザは11歳で、第22代薩摩藩主島津継豊の命を受けて商船に乗り込みますが、漂流してしまい、薩摩の港から、6ヶ月と8日間の末、カムチャッカ半島の南端ロパトカ岬付近に漂着したそうです。その後、ヤクーツクやトボリスク、モスクワを経て当時の首都ペテルブルクへと約1万キロの距離を4年間にわたり移送されます。
これだけでも想像を絶する経験だと思いますが、これだけで終わりません。
ゴンザは、わずか11歳から15歳まの漂流と移送の旅に続き、ロシアでキリスト教の洗礼を受けます。当時は江戸時代で、キリスト教が禁止されていたので、日本に帰ることもできずに、21歳で夭折するまでずっと異国の地で暮らしました。
ゴンザの言語感覚は大変優れていたようで、科学アカデミーのボグダーノフ教授の下で、『露日辞典』の編纂(これも1736年のことです)をします。この辞書には、「アルファベット(イロファ)」「神(フォドケ)」「ハム(シオシタブタ)」などがあり、幼少時代に学んだことがないだろう抽象的な概念も理解していたことがうかがえ、このことをもって、当時の薩摩地方の教養の高さを指摘する学者もいるようです。
ゴンザは『露日辞典』に続き、『日本語会話入門』(1736)、『新スラブ語・日本語辞典』(1738)、『簡略日本語文法』(1738)、『友好会話手本集』(1739)と作成していきます。中でも『新スラブ語・日本語辞典』は約1万2千語を有する大辞典で、ネットもない、情報が少ない時代での事業としては、容易でない偉業だっと言えるのではないでしょうか。
それにしても、『新スラブ語・日本語辞典』には、「ネブル(眠る)」「ダレタ(疲れた)」「シタガ(白髪)」「フユ(怠けて)」のように、標準語(当時は標準語はありませんでした)ではなく、薩摩方言が色濃く出ているようで、とても興味深いものです。他にも「アコクロ(夕やけ)」「ワラベオヤスフト(子供を世話する人)」などあり、薩摩方言研究の資料としても大変価値の高いもののようです。
ところで、ゴンザは日本語学校で、当時のロシアの人たちに日本語をどのように教えていたのでしょうか?もしかしたらゴンザの生徒さんたちがみんなで「桜島が日本一の山じゃっど」と言っていたかもしれないと想像すると微笑ましい気がします。
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このnoteを書くのに、参考にした主なサイトと資料:
新スラヴ・日本語辞典における18世紀初めの薩摩方言語彙
https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2332769/pa031.pdf