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「知識と教養の違い」の前置きとしての「知識人と教養人」
目下、日本語教員国家試験の勉強につき、ピジンとクレオール・パラ言語・シラバスデザインなど、新しい知識を頭に詰め込んでいる。私には脳のイメージとして、吸収抜群のスポンジのようなというイメージがあるが、実際の私の頭は、文字通りの頑固面での石頭に加えて、記憶面でも石頭だ。
強がりを言うつもりはないが、受験勉強をしても知識は身につくが、教養は身につかないと考えている。
とは言うものの、知識と教養の違いについて、私は考えたこともなかったし、二者間の違いについて、よくわかっていないので、そんなことを言う資格は私にはない。かと言って、その違いを辞書で調べて、このnoteに書いても納得できる気もしないので、自分なりに自分で納得できる解釈をしておきたいと思う。
ところで、知識と教養の違いについて考えるきっかけになったのは、あるYouTube動画の中で、日本人は受験勉強を通して、多くの知識を持っているが、本当の学びをやってきた人が少ないと、あるエコノミストが言っていたことだ。私は頭の痛いことを言う人だなと思ったが、確かに今の日本には、知識人は多いが、真の教養人は少ないかもしれないと、共感を覚える自分もいた。
そういえば、戦後の学生運動を思い出す。自分が生れた時には学生運動は終わっていたが、多くの知識を詰め込んだ学生が強硬な手段に出て保守体制を破壊しようとしたことは知っている。またその頃は、知識人をインテリなどと称して揶揄するような言動もあったことも知っている。
そういう知識人はあやういという風潮を汲んで、昭和では、知識人よりも教養人を評価していたような気がする。NHKの番組では、教養とか知恵というキーワードを使った番組タイトルをたくさん目にした。今では、番組名は挙げないが、誰よりも知識を持っていること賞賛することで、みんなで盛り上がるような番組がたくさんある。
昔はインテリは揶揄に値する表現として使われたが、今ではインテリジェンスに富んだ人は羨ましがられる。
その一方で、知識をもった専門家と呼ばれる人が、これまでの学術の杜から、テレビの世界にたくさん下山してきていると、成田祐輔などは、テレビにのこのこ出てくるような学者を、御用学者と言っているが、成田祐輔も同じ学者だから言えるのであって、私が言ったら不謹慎な発言になる。
それはともかく、今では、多くの知識人が脚光を浴びているが、教養人は世の中から身を潜めているように見える。それに、知識という言葉はたくさん散見されるが、教養という言葉を口にすることは少なくなったような気がする。
知識と教養の違いについて書こうとしているが、ここまでは前置きで、ここから本題に入るつもりだが、長くなりそうなので、このnoteはここまでにして、続きは明日書こうと思う。
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