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人間のドラマとして科学の歴史の変化を見る
科学者に必要なのは言語化能力
現代では客観的かつ合理的なものが科学であるという常識をもっていますが、私たちがこのような常識をもつようになったのは明治維新による近代化の始まりからで、それからわずか100年ほどしかたっていません。
日本人が西洋の科学を取り入れる前に、西洋では古代ギリシャ時代に始まり、2000年以上にわたり、科学は発展してきました。もちろんエジプトや中国の科学文明も無視できませんが・・
私は、科学の歴史を発展ととらえるのではなく、あえて変化ととらえています。
人類の最大の発明は言語です。古くは人が言語を操ることでギリシャ哲学が生まれ、やがてそれが科学へと発展していきます。そもそも科学になくてはならないものは、実験道具でも観測機でもなく、言語だと私は考えています。
科学は説明可能でなければ、つまり言語化できなければ成り立ちません。その意味で科学と言語は二人三脚です。
そういう意味で、科学の起源をたどろうとすると、ギリシャ哲学に行きつきます。特にアリストテレスの「自然学」は、その体系知により、科学の歴史において、大いなる影響を与えました。
科学の歴史に登場してくる有名な科学者たちはみんな言葉を巧みに操る人でありました。逆に言うと、言語化能力のない科学者は科学者になるのは難しいのかもしれません。
そして、科学の歴史を作ってきた有名な科学者たちは科学の達人でありながら、みな等しく言語化能力にも優れていたことはあまり語られることはありません。
科学の発展のためには、科学者はこれまで未知で新しく導き出された論理や法則をわかるように説明しなければなりませんが、既存の言語システムで説明できない場合、言語の意味や定義を拡張して、未知であった科学の論理や法則を言語化する必要があります。
私の座右の書に「春宵十話」という数学者の岡潔先生の本があります。
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岡潔(ドラマ化されています)は、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎にも影響を与えた数学者です。彼が書く文章は思想的に深淵で、未知なる思想世界を言語化する能力がすばらしいのは「春宵十話」を読めばわかると思います。
現代の科学的常識をまず捨てる
「科学的思考の歴史」を見るうえで、客観性かつ合理的なものが科学だという常識はいったん忘れたほうがいいと思います。というのは、まず歴史を振り返るときにまず見なければならない古典科学は、今の科学とはまったく違う客観性とは無縁のものだったからです。
突っ込んだ言い方をすると、今の常識で見ると古典科学は非科学的です。古典科学では現代の科学的の常識的な定義が通用しません。でも古典科学も「科学」です。
時系列をたどって教科書的に科学の発展の歴史を追うだけでは見えてこないのが、大昔の科学者たちの頭の中です。それを「科学の発展史」ではなく「科学的思考の変化」に視点を当てることで、現代の科学的常識では語ることのできない、かつての科学者たちの科学的アプローチや科学的思考を覗き見ることが面白いです。
古代人の常識と現代人の常識は違います。それは両者の科学の定義も異なることを意味します。あくまでも私なりの解釈ですが、古代人にとっての科学は「語りの科学」であり、近代人にとっての科学は「客観性の科学」で、似て非なるものです。
私はこの似て非なるものを、同じ土俵で説明しようとして、自己矛盾に陥るだけです。
現代の常識が正しいとは限らないように、現代の科学のあり方が正しいとも限りません。そして、科学の歴史の変化を見たときに、現代の科学はゴールにたどり着いたのではなく、変化の一通過点にすぎず、これからも科学は変化し発展し続けることは間違いありません。
歴史的出来事だけでなく、人間ドラマも見る
そこで私はさらに、科学の歴史の変化の本質を捉えようとするには、歴史的な出来事だけでなく、「人」も見る必要があるのではないだろうかと考えることにしました。できるならば人間のドラマをベースに科学の歴史を見てみたいと思っています。
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先程出てきた岡潔は天才数学者だと世界的に認められていますが、あまりにも難解で世界の数学者にも敬遠されていて、誰も解き明かせなかった3つの難問(多変数複素関数論)を一人で解決してしまいました。
岡潔がいなければ、現代数学の三分の一はなかったと言われるようですが、世界最高峰の数学者であるカール・ジーゲルは岡潔に会ってみたいと日本まで飛んで来て言いました。「あれほどの膨大な論文を一人で書けるはずがない。「オカ・キヨシ」とは一人の人物ではなく、実際には20人から30人からなる数学者集団による架空の名前だと思っていた」と。
その岡潔は言います。
本当の数学は黒板に書かれた文字を普通の目玉でやるのではなく、自分の心の中にあるものを心の目でみてやるのである。これを君子の数学という。この方法でちゃんとやれば、白昼の光の中に住むことができる。自分で自分がわかるということなのだから、計算などというまだるっこいことをしなくても、直感でわかるのである。
また、岡潔は大学の教鞭で学生に「数学は生きものであり、数学をするにはまずその人ができなければならない」とも言っていました。京都帝国大学で岡潔の授業を受けた、後にノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹や朝永振一郎は、物理学の授業よりも岡潔の数学の授業は刺激的だったと語りました。
科学の歴史を見るときに、どうしても誰が何を発明したとかその業績ばかりに目が向いてしまいます。岡潔が多変数複素関数論を解明したとか、湯川秀樹が中間子理論で、朝永振一郎が量子電磁力学でノーベル物理学賞を受賞したとか、そういう見方です。そうした業績や功績にスポットを当てる見方はそれはそれでいいと思います。
ただ、岡潔が全身全霊で数学の未開を扉を開き、岡潔の数学者とは思えないような「数学は芸術の一種であり、科学に必要なのは情緒や直観だ」という発言に刺激を受けた湯川秀樹や朝永振一郎が、科学の歴史の発展の一幕にいた。こんな感じで、科学の歴史の変化を人間のドラマとして見るのもありかなと思うのです。
数学的能力も科学者としての能力のない人間が考えるのは、そんなことです。
🦉
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