戦略的意思決定の真髄:選択と集中で未来を切り拓くー楠木建氏、柴田巌氏
Aoba-BBTが毎年開いている経営者・人事向けの「リカレントサミット」の2024年版。10月2日に、「戦略的意思決定とは何か/何ではないか」というテーマにて開かれました。登壇者は、楠木建氏(一橋ビジネススクール特任教授)と、柴田巌氏(株式会社Aoba-BBT代表取締役社長)でした。
特に、メインセッションは、競争戦略の第一人者である楠木氏による、戦略的意思決定について深く掘り下げた講演でした。本内容は、変化が加速する現代において、どのようにして競争優位を確立し、持続可能な成長を実現するかを主軸に据えた内容であり、特に「戦略的意思決定とは何か」という問いを中心に展開されています。
戦略的意思決定は、人事の立場としても、種々考えさせられるところがあり、応用すべきところも多くあると感じたところです。内容から考察したいと思います。
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戦略的意思決定の本質について
楠木氏は冒頭で、「戦略とは何をするかを決めることではなく、むしろ何をしないかを明確にすることが本質である」と強調しました。このアプローチは、企業経営において選択と集中を徹底することで、リソースを効率的に活用しながら他社との差別化を図る戦略的思考を根底に据えています。企業が限られた資源を有効に使うためには、すべてを同時に実行するのではなく、重要な目標に焦点を絞り、その他の選択肢を断念する勇気が必要であると述べています。
具体的には、戦略的意思決定を支える考え方として、単なる効率化や一時的な改善(Operational Effectiveness)に囚われるのではなく、競争の中で明確な「違い」を作ることを目指すべきであると説きました。ここで重要となるのが、戦略的ポジショニング(Strategic Positioning)です。ポジショニングとは、企業が他社との差異をどのように明確化し、顧客に対して独自の価値を提供するかを考えるプロセスを指します。この視点が欠けていると、企業はただの「効率競争」に陥り、本来の競争優位を築くことができなくなると指摘しています。
さらに楠木氏は、「戦略的意思決定は未来を予測する行為ではなく、過去から学ぶことである」と述べています。多くの企業は「今こそ激動期だ」という掛け声に惑わされ、同時代の流行やステレオタイプに流されがちですが、そうした視点では本質的な戦略を構築することはできません。むしろ、積み重ねられた過去の事実から学び、それを基にして未来に向けた差別化を図ることこそが重要だと強調しました。
戦略のゴールとしての長期利益
楠木氏は、戦略を考える際の最終的な目標について「長期利益の実現である」と述べました。ここで言う長期利益とは、短期的な収益とは異なり、持続的に利益を生み出し続ける能力を指します。この長期利益が達成されることで、企業は顧客に価値を提供し続けることができ、従業員の雇用を守り、給与を支払い、株主に利益を還元することが可能となります。
さらに、長期利益が社会貢献と密接に結びついていることも重要なポイントです。企業が競争の中で価値を提供し続けることができれば、自然と法人所得税として社会に還元される資源も増え、結果的に大きな社会貢献を果たすことになります。この点について楠木氏は、「持続的に儲けるビジネスモデルこそが最大の社会貢献である」と述べ、社会貢献活動やESGへの対応も、まずは長期利益を達成することが基盤となるとしています。
また、利益の本質についても説明がなされました。楠木氏は「利益とは顧客が支払いたいと思う金額(Willingness to Pay)からコストを差し引いたものに過ぎない」と述べ、戦略を考える際にはこのシンプルなロジックを軸に据えるべきだと語りました。顧客が価値を感じて支払いたくなる価格をいかに提供するか、そしてその価格を実現するためにコストをいかに効率化するかが、戦略の核心であるという視点を示しました。
トレードオフの選択がもたらす意味
戦略的意思決定のもう一つの重要な側面として、楠木氏は「トレードオフの選択」を挙げました。ここでのトレードオフとは、「正しい選択肢と間違った選択肢」ではなく、「どちらも正しい選択肢」の中から一つを選び取り、他を断念することを意味します。たとえば、サウスウェスト航空の事例では、競合他社と同様のサービスをすべて提供するのではなく、「ハブ空港を使用しない」「短距離路線に特化する」「機体を1種類に限定する」といった選択を行うことで、コスト効率を最大化しつつ、独自のポジショニングを確立しました。
このように、戦略的意思決定は「何を追求するか」を決めるだけでなく、「何を追求しないか」を明確にする行為でもあります。その結果、企業は限られたリソースを有効活用し、他社と一線を画す独自性を実現することができます。楠木氏は、「戦略とは、顧客にとって明確に違いがわかる価値を提供することであり、そのためにはトレードオフを選択する決断が不可欠である」と述べ、戦略的意思決定の重要性を強調しました。
楠木氏は、戦略的意思決定の本質を深く掘り下げ、企業が長期的な成功を収めるための指針を明確に示しておりました。特に「何をしないか」を決めることの重要性を繰り返し述べられた点は、戦略における新たな視点を提供するものといえるでしょう。
人事の視点から考える戦略的意思決定
楠木の講演で述べられた戦略的意思決定の本質は、企業経営の大きな指針を提供しています。この内容を基に、人事部門がどのようにして組織における意思決定や行動を支援し、さらに戦略を具体化していくべきかについて考えます。特に、「何をしないかを決める」という戦略の本質、「長期利益の追求」、そして「トレードオフの選択」に基づいた人事の役割を検討してみます。
1. 戦略的意思決定における「何をしないか」を支える人事の役割
楠木氏が強調した「戦略的意思決定の本質は、何をしないかを決めること」という考え方は、人事部門にとっても極めて重要な指針となります。人事が「何をしないか」を明確にするためには、企業の全体戦略やリソース配分を的確に理解し、それを実現するための施策を設計する必要があります。
具体的なアプローチ
例えば、企業が特定の市場や技術領域にフォーカスを当てる場合、その戦略に沿った人材を育成し、不要なスキルセットや職務領域への投資を控える決断が求められます。たとえば、サウスウェスト航空が短距離運航に特化し、機体を1種類に統一したように、人事も同様に「何をしないか」を軸とした採用や人材配置、教育プログラムを設計しなければなりません。
具体的には、すべての従業員に「幅広いスキル」を持たせるのではなく、競争優位を支える「専門特化型」のスキルを重視した教育方針を採用します。これにより、限られたリソースを有効活用し、企業の競争戦略に直結した人材を確保できる体制が整います。同時に、全社的なリソースの使い方を意識し、不要なプロジェクトや過剰な人材投入を避けることで、効率的な人事運営を行うことが可能となります。
2. 長期利益を意識した人事戦略の必要性
楠木氏が述べた「戦略のゴールは長期利益の実現」という言葉は、人事にとって重要な方向性を示しています。企業が長期的に利益を生み続けるためには、顧客、従業員、株主、さらには社会全体にわたる価値の提供が必要不可欠です。この実現において、人事部門は以下のような役割を担うでしょう。
従業員のエンゲージメント向上
長期利益を支える従業員の満足度やエンゲージメントを高めることが、人事の重要な目標となります。従業員が企業の目標や価値観に共感し、持続的に貢献できる状態を作ることが、企業の競争力を高めるカギとなります。人事は、定期的な満足度調査やキャリア面談を通じて、従業員の声を反映した施策を設計し、働きがいのある職場環境を整備する必要があります。
適切な人材配置
長期利益の実現には、適材適所の人材配置が欠かせません。企業の競争優位を支える部署や職種に優秀な人材を集中させることが、人事の役割として重要です。一方で、戦略に合致しない領域への過剰な人員配分を防ぎ、リソースの最適化を図ることも求められます。
キャリア開発とスキルアップ
長期的な企業の成功には、従業員のキャリア開発が不可欠です。顧客満足を実現するためには、従業員が専門性を深め、時代に適応したスキルを持ち続ける必要があります。これに対応するため、人事部門は研修や教育プログラムを拡充し、長期的な視点でスキルアップを支援する体制を整えるべきでしょう。
3. トレードオフを支える人事制度の設計
企業の戦略的意思決定が「トレードオフ」の選択に基づくものである場合、人事部門はその選択を具体化し、実行可能にする仕組みを構築する必要があります。この際、重要となるのは、採用、教育、評価などの各制度を、企業の選択したトレードオフに沿った形でデザインすることも考えられるでしょう。
採用戦略の最適化
採用活動において、企業の戦略と一致する人材の特徴やスキルを明確に定義し、それに合致した候補者を選定することが求められます。一方で、戦略に必要のないスキルや背景を持つ候補者については採用を控えるなど、明確な基準を設けることが重要です。この選択により、企業の競争優位を支える人材層を形成することができます。
研修プログラムの集中化
教育や研修においても、すべての分野に対応するのではなく、特定のスキルや知識に集中することが求められます。例えば、新しい市場や技術に特化した研修プログラムを導入することで、企業の競争優位を支える専門性を育成します。
4. 「何をしないか」の文化を浸透させる
企業全体で「何をしないか」を明確にする文化を醸成することも重要でしょう。この文化を定着させるためには、以下のような取り組みが考えられます。
透明性のある意思決定プロセス
企業が「何をしないか」を選ぶ理由や背景を、従業員に対して明確に伝えることが重要です。これにより、従業員の納得感を高め、全社的な協力体制を築くことが可能となります。
リーダーシップ研修
特に管理職には、トレードオフを適切に選択し、それを部下に説明できる能力が求められます。このため、人事部門はリーダーに対する研修プログラムを設計し、戦略的意思決定の重要性を理解させる取り組みを行う必要があります。
5. 人事の長期的な役割
人事部門も、企業が長期的に持続可能であるための基盤を提供する役割を果たします。そのためには、以下のような施策を長期的な視点で進める必要があります。
ダイバーシティ推進
多様な視点や価値観を持つ人材を採用し、競争戦略に新しいアイデアやアプローチを取り入れることで、企業の成長を促進します。
柔軟な働き方の導入
従業員のライフステージや価値観に応じた柔軟な働き方を提供することで、長期的な雇用維持を支援します。
パフォーマンス評価の見直し
短期的な成果だけでなく、長期的な成長を評価する仕組みを導入することで、従業員が安心して長期的な視点で働ける環境を整えます。
まとめ
楠木氏の講演で示された戦略的意思決定の枠組みは、人事部門にとっても極めて重要な指針となります。特に、「何をしないかを決める」という考え方を基に、人材育成、配置、評価の各プロセスを再設計し、企業の競争優位を支える役割を果たすことが求められます。このような取り組みにより、企業は長期的な利益を追求しつつ、従業員や社会に持続可能な価値を提供できる組織となるでしょう。
「戦略的意思決定の本質」を示す場面です。会議室でスピーカーが「何をしないかを決める」重要性を強調しながら、ホワイトボードに「戦略的ポジショニング」や「トレードオフ」といったキーワードを用いて説明を展開しています。視覚的な要素は、限られたリソースを効率的に活用し、集中すべき目標に焦点を当てた戦略的思考を象徴しています。知的で協力的な雰囲気が、テーマの本質を効果的に表現しています。