高齢者の「原宿」 ~さすが「とげ抜き地蔵参道」
まだ都電に乗って移動したいと思った私は、「巣鴨」行ってみたいと彼女に告げた。
「え?なんで?」
「行った事ないんだ。」
さすがにお互い巣鴨が似合う年齢だからとは、
あまりにも失礼なので言わなかった。
しかし、彼女はケラケラ笑ってこう答えた。
「うん、行きたい。とげ抜き地蔵。案内してあげるわよ。」
なんだ、すでに行ってたんじゃないか・・。
しかしながら、自分自身も同じ穴の狢だと感じるべきだろう。齢というものは、否が応でも重ねていくものなのだ。それに抗っても仕方なかろう。
ワンマン運行の都電のアナウンスは、とげ抜き地蔵はここで下車せよと言う。実は彼女も駅名は覚えていなくて、このアナウンスだけが合図だと、笑っていう。
「とげぬき地蔵」正式には萬頂山高岩寺、曹洞宗の寺院だ。
創建は慶長年間。家康の江戸開府の頃にさかのぼる古刹だ。
しかしながら、江戸のお寺はどうにもこうにも実に庶民的だ。小難しい教義なんてどうでもいいのだ。
「どんな御利益があるのか」
これにつきる。しかしながら、これがそもそもの宗教のあり方なのだろう。だらこその宗教なのだ。そこには余計な蘊蓄など必要がないのだ。
詳しくその中身や意義を求めるものと、ただ「有り難し」と参拝することとの違いは何もない。すなわち神仏の前では、すべからく人は「平等」であると言うことだ。
そして信仰というものとはまた一つ違う。なんだろう「信心」という言葉でも言い表せられない、とにかく不思議な感覚なのだ。言ってみればそれが民間信仰の正体なのかもしれないのだ。
寺伝だと、そのとげは侍女が誤って飲み込んだ針を、この寺の地蔵尊札を呑ませたところ、それがとれたと言う。だから本尊は地蔵尊札であるという。
しかも、そのとげの正体とは、煩悩の原因となる「三毒」。つまり悉・貪・痴であるという。この本尊はそれを抜いて、覚りへ導くというのだ。
そこでなるほどなのだ。ある意味「本尊」は何でもいい、対象は物質ではなく、あくまでも信じる「こころ」なのだ。
「ねえ、洗うていこうよ。」
「え?なにを」
とげ抜きさんの一番の功徳だという、彼女が連れて行った先にあったのは、すべすべにあらわれた「聖観音菩薩」の石像だった。
そうか、聖観音の化身は言ってみれば「地蔵菩薩」なのだ。私は妙に納得した。
参道は賑やかだった。この参道は「おばあちゃんの原宿」とも言うそうだ。
ホントだ、確かに老人が多い。そして、店のアイテムが老人向けだ。なんかくすぐる。
しかもある店舗には「おじいちゃん預かります。」との看板。なるほど、ここは確かにおばあちゃんファーストなのか。
そういや、同僚に忘年会で「赤ちゃんちゃんこ」着せられた記憶がよみがえったのは、赤い色のアイテムをそろえる店が結構あったからだ。
赤は「厄除け」の色であるという。赤と言うより「緋」と言うべきか。
「ねぇ!あそこの店みて!」
彼女がはしゃぐ。見ると、「赤専門」の店構え。圧倒された。
「なるほど、還暦の専門店か。」
さすが「おばあちゃんの原宿」恐れ入りやの鬼子母神だ。
「あ、あたし、パンツは赤じゃないから!」
あ、いや、別に・・・訊いてないので・・・。