「こころの命」に対する不安
現代は「殺心」が蔓延している
これは、あたしもたぶんあちこちで犯してると思うので、本当に偉そうなことは言えないのです。
まず、このことをお断りしてから、お話を進めていきたいと思います。
「殺心」とは、あたしが考えた造語です。現在、なんとかハラスメントなどという言葉がやたらはびこるようになって、皆さん何も言えず萎縮してる感もありますね。こういう風に何かしら「萎縮」させる状態がそうなのかな。という意味で使います。
あたしらが育った「昭和」の時代なんか、いまここに持ってきたら、もう、大変なことになるだろうと思います。
いまは、「言いたいことも言えない」と「言いたいことは言っていい」がもしかして共存しているのではないのか。というような感想を持っています。
いまは、様々な「意識高い系」がマジョリティで、たとえば「多様性」だとか「環境」など、気がつけば本来はもっと自由なはずだったのが、いつの間にか世界を息苦しくしている段階に入ったような気がするんです。
「学級会」みたいな世の中だから脆い
つまり、みんな「お利口さん」なのではないか。そして、そのお利口さんを逆に強要してるような気もするんです。
それに反発すると、現代ではすぐ「炎上」しますね。たとえばそんな意図がなくても言葉っちりを切り取られて、炎上しちゃいます。
それに絶えられず命を絶つ人もいるくらいです。殺心が文字通り殺人になるわけです。
ですが、それに関わる人は「全く意図してない」で自分は「いいことをした」と思っているから厄介なのです。これはまさに無作為の罪とでも言いましょう。
いまの世の中が厄介なのは、こういった「無作為」が蔓延する環境にあるからです。歴史をひもとくと、東西冷戦を終結させた「ベルリンの壁の崩壊」も、実は東ドイツ政府の「手違い」から始まったとききます。まったく、何がきっかけで大事が起こるかわかりません。だから無作為は怖いのです。
あたし自身は、誰かに「強要」することはできるだけしないようにしました。ですから周りにも強要して欲しくない。そんな意図があるのかもしれません。
ですが、なかなか上手くいかないものですね。ですから、わからなければそれでいいよ。と言うスタンスでいることにしています。
自分の心は自分で決める。それが「殺心」から身を守る強力な武器なのだと思うからです