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懐かしい写真が出てきました。実を言いますと、ここに写っている黒猫は親子で、しかもどちらももうすでに鬼籍に入っております。野良猫であったのが、我が家の隣の老婦人に拾われ、飼われておったのですが、「猫エイズ」に感染していたとかという事で、子どもから先に逝き、先日母親も逝ったそうでございます。この写真は、この二匹がまだ「野良」だったときの映像なんですな。「行くもの・来るもの」というもので、「如来」とでも題にしようかと思ったものでございます。
彼の岸と此の岸を自在に行き来できる存在を「如来」と呼びます。あの世とこの世とも言うのですが、「迷いに満ちた世界」と「悟りを開いた世界」を自由に行き来できる。そういう存在なのです。物理的に言えば、「どこでもドア」の世界になるんでしょうが、仏教的な観点から行くと、「心のあり方」の自在な行き来とでも言うような世界になりますな。つまり、自由な心を持った存在というものが「如来」というべきものなんでございますよ。
ここまでお話ししていくと、あたし達のここにある世界というものは、すべからく「心」の働きによるものなのだという事がなんとなくわかってきます。で、こういうように心を自由に解放できたとしたら、なんと平安に満ちた心持ちになれるだろうという思いになりましょう。
では、どうしたらそのような心境になれるのでございましょう?という思いに駆られるわけなのです。それが「発心」であり、それを意識し実行に移した時点で、その心は「菩提心」を持つことになります。で、そういう存在を「菩薩」と仏教では言っておるわけです。という事は、菩薩とは覚った存在ではなく、努力し続けてる存在なのだということですな。ですから、菩薩が有り難いのはその存在と言うよりも、その努力し続けようという心がけ=努力の「あり方」に対するありがたさだと言うことなんですね。
心の自在を求めようと、なんかやり続ける。上から目線でなく同僚性とでも言いましょうか、お遍路の「同行二人」宮澤賢治の「雨ニモマケズ」なんかにも、そういう心が見えますなぁ・・。
世知の世界で言うならば、「存在価値」と「機能価値」とでも言う関係でございましょうが、これとてコップの中よりも狭い、あたしらの心の中の世界のような気もいたしますが、実はこれが広い世界の構成要素だったりするわけなんです。
いずれにせよ、良いとか悪いとか、狭いとか広いとか、そういう二元の考えからあたし達はぬけられないって事なんでございましょうか。それが「煩悩」とも呼ぶべきものなんでございます。