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善いことをするというイヤらしさ
善いことをするという悪い事もある。
この言葉は、昭和の大禅師、澤木興道のものだ。さて、これはいったいどういう事を言うのだろうか。そんなことを考えさせられたのは、この記事だ。
動物愛護が悪いことだとは言わない。また、同じように考えると平和運動などもそうだ
。それらの主張は決して悪い事ではないのだ。
だが、あまりにも高見にいないのか?という疑問がある。つまり、自分は当事者でない観念の高見にいて、ひたすら正論を吐き、そして正義の下に糾弾し、実力行使におよぶ。
だが、それは本当に「正しい行為」なんだろうか・・。何に対して正しいのだろうか。片方が正しかったら、では逆の方は悪になるのだろうか・・。という疑問が生まれてくるのだ。たとえば、それが問題だと考えたときに、その評価基準はどこにあるのかと言うことから始めなければならない。
言い分は、必ず双方にあるからだ。互いに正義だと叫んでぶつかれば、どちらかの「正義」が結局諍って他方の正義を打ち破り、相手の正義を相対化するしかない。つまり、ぶつかり合う双方の正義は成り立たないのだ。正義の対極には必ず不義があり、負けたら即刻「悪」になるのだ。
そろそろそういう図式に飽きても良さそうだが、人はなかなかそうは行かない。
まだまだ、この社会には、自分の「正義」を疑わない人はたくさんいる。その人々にとって、自分の正義に異を唱える者は、まちがいなく敵であり、徹底的に叩く相手なのである。
それを匿名でやるのは、自分を高見において安全地帯にいながら、自分の意に沿わない者を敵に見立てて陥れる、ある意味犯罪に近い存在でもある。
私から言わせると、そういう輩は本当の意味で「卑怯者」である。
たとえば今回のクマ愛護の例で言ってみよう。
街にクマが出た理由は、さまざまな要因がある。しかし、その原因はあくまでも「人間」が作りだしたものである。そこに触れずに「かわいそう」だけでそこの住民の命の保証を脅かして良いものだろうかとも考えるのだ。
クマを殺すのがイヤなのなら、反対者自ら命がけで教育駆除に参加したり、麻酔銃でクマを撃つ資格を持つべきなのだ。つまり、当事者になって運動を起こすことで説得力を持つのである。
バカみたいにドングリを撒いてクマさんに食料を与えようなどという子供だましな活動など、現状をまったく勉強しないお馬鹿な行為であることは否めない。逆に野生動物と共存するためには、人工的に餌を与えるなど、絶対してはいけないと言うことは原則中の原則だからだ。
日本の戦争責任を叫ぶ者が、8月の終戦前後にアジア各国に「戦争贖罪の旅」に出かけた例はほとんど聞いたことがないし、そういうエセ市民活動家は組織保持だけに血眼になってるのが現状だろう。正義を貫くには人生をぶっ壊すくらいの覚悟がいるのに、大体は自分たちはえらそうな位置で、えらそうに社会にものを申すそんな薄っぺらな存在なのだ。
正義というのは本当に始末が悪い。
仏教では、「はからい」がある行為は善であろうが悪であろうが、よいことではないとしている。善がよくないのなら、悪でイイじゃないか。という言い方もあるし、現に親鸞が「悪人正機説」説いたとき、じゃあ悪い事すればいいじゃないかという一派もあったと聞く。
しかし、善いことをしようとして善いことをするのも、悪いことをしようとして悪いことをするのも、ただカッコウをつけているだけであって、本当の自分の姿ではない。カッコウいいと思って悪いことをする人も世の中には少なくないが、カッコウをつけて善い人ぶっている人たちと同じくらいくだらない連中であり、そこには何の違いもないと言うことだ。
人は、決してきれい事だけでは生きていけない。物事もすべてきれい事だけではダメである。だが、人生に深い洞察ができないものは、その機微がわからないのだ。
人はいったいどこでそれを学んでいけばいいのだろうか。今は、著しくその場がなくなってしまったような気がする。
お汁粉は、塩をひとつまみ入れることで甘さが増す・・。
こんな間合いなのだ・・。
*注)この記事は10年前に書いた、あたしのブログ記事の復刻版です。
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