中華三千年の歴史に挑戦するpart2
周王朝
(紀元前11世紀〜221年)
殷の時代は500年ほど続いたわけですが、殷の王室や、それぞれの邑国家の相続制度が「父系相続」に変化していくことによって、同一血縁関係者の「特権化」が生まれていきました。
この頃の卜辞には、「衆」「臣」などの文字が見えており、いわゆる王族以外の自由人と考えられます。
また、その他「奴」「僕」「牧」「射」など、征服された国家の民であったであろういわゆる「不自由人」が存在し、使役にかり出されたと考えられます。すなわち、階層社会が生まれたわけですね。
さて、殷の時代の中頃、殷王に敵対する勢力が現れます。
渭水流域に興った「周族」は、西方や北方の民族の武勇と交わって、徐々に力をつけていきました。
そしてついに「討殷」をもくろみます。そして紀元前1122年、ついに28代殷王である「紂王」を牧野の戦いにおいて討ち取ります。これを殷周革命と呼びます。
さて、初代周王となる「武王」はさらに勢力を拡大し、紀元前11世紀初め頃、鎬京に王都を置きました。そして、各諸公に対して「封建」を開始しました。
封建とは「分封建国」という意味です。日本史で「御恩と奉公」という言葉で習ったと思いますが、土地を仲立ちとした支配関係です。
周の政治システムは、天子である周王が、封土と人民の一部を一族や功臣に分け与えて、それぞれに小国家を建国させてその統治を委任すると言う支配形式です。
元々は「殷族」の監視のために始められましたが、殷周革命後に周全土に広がりました。旧来の邑国の支配者にも適用したため、当初は1800もの封国があったようです。
これらの支配者は「諸侯」とよばれ、公、候、伯、子、男などの呼び名がありました。
周王は天下の王で、全国土の主権者ではありましたが、直接的な統治実権は、畿内と呼ばれる直轄地のみであったと考えられます。しかし、王は封没の権利を持っており、諸侯を率いて出軍するなどある程度の命令監督権を持っていました。
諸侯たちは、土地を委ねられる代わりに王政に対する義務を負ったわけです。
周王の権力の源となるのが「有徳者受命」という政治思想でしたが、こういった形態は、漢代の「儒学」の影響が強く、後付けの理想論ではないかというのが一般的です。
周はやがて西方の犬戎の攻撃を受け、都を洛邑に遷します。この頃には周王の実質の権限は衰え、代わって要地で武功をあげた封建諸侯たちが力をつけてきました。こういった諸侯たちは「覇者」と呼ばれました。彼らは中華で互いに力を競うようになっていきました。
こういった覇者の定義は、辺境に侵入しつつあった異民族を防ぎ、周王室の権威を守ると言った、いわば「尊王攘夷」を旨としていました。そして、それを実現する会盟の主を競ったわけです。
この時代のことを「春秋」と呼びました。こういった覇者はやがて切磋しながら、齊や楚などの五つの雄国に収斂されていきました。いわゆる「春秋五覇」です。
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