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実をもって虚と為すか、虚をもって実と為すか
「寫眞」という命名は、そのものへの「矛盾」を抱えてるよね。って、最近になってとみに思うようになったんでございます。
「Photograph」の和訳を「寫眞」となしたのはいつなのかなっていうように思いまして、ちょっと調べてみたら、日本語で、まずは「光画」というのがそもそもだったようなんでございます。
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そもそもphotographという語は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが創案した造語でございます。
すなわちphoto-は「光の」、-graphは「書く、描くもの」「かかれたもの」という意味ですから、日本語で直訳したら「光画」って言う感じになりますね。
で、「寫眞」にいたっては、漢語の「真を写したもの」でございまして、いつしかこれが「Photograph=寫眞」となり、今の「写真」というものになったといえるわけでございますな。
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さて 写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を繊細に反映する代物でございます。
写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段であるといえるわけです。
そして同時に、印画紙出力などで介在する、「技術者」の手腕の産物でもあったわけなんですな。
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すなわち、「写真家」というカテゴリーにいる人々は、自らの切り取った「イメージ」を表現するにおいて、たとえばグラビア印刷の技術者とのせめぎ合いも、めちゃ不可欠な要素であったりするわけなんでございます。
ですから撮影対象や画像加工技術などにより著作者の発想や手腕が、「写真」を確実に視覚芸術として成立させるためには、カメラやレンズのハードもさることながら、現像や印刷といった、複数の技術が介在して一つの「作品」に成立させるものだといえるのではないのかと思うわけです。
ですから、写真芸術とは言わば「縦方向プロダクト」であり、被写体も含めたくさんの人々の「思いや技術の経過」によってできあがった結果が、そのワンショットに込められるのでございましょう。
すなわち、「いろんな経過の結果だから良いのだ」という事が言えるのかも知れません。ですからそもそも、たかがカメラマン一人で成立帰着するようなものじゃないって事なんですよ。
このことが、「群れて」撮っている仲良しクラブ的な人々に対し、あたしがどことなく違和感を感じ、どこか距離を置いている所以なのかもしれません。
*この記事は3年前の投稿の再掲です