ビートルズが終わる(1) 1968年~1969年5月
ここ数年、「ビートルズは永遠に不滅です」と言えるような現象が続いている。
永遠に続くものは無いのに復活を繰り返す。私たちが本当にそう願うから、これからも・・・
物事には必ず始まりと終わりがある。永遠に続くものは無いと言っても良いのに、ビートルズは不思議なことに、解散してからもオバケのように復活を繰り返す。この世という異世界に再結成したかのような錯覚さえ感じる。
2022年、映画Get Backで眠っていた彼らの姿が蘇えるとともに、昨年Now and Thenが見事な曲となり蘇っている。
復活させたのは私たちなのだが。
彼らは私の思春期に何故かいきなりスッと私のなかに入り刷り込まれた。曲が自分に入ってくる時は、様々な状況もあると思うが、彼らの音はこの時自分に響いた。
私は後追い世代だが、それから彼らと50年以上も一緒に生きている。
彼らは、ユーモアやウイットで権威や権力を嫌い、音楽で武力に抗い、平和を希求した。その姿勢が自分が生きるうえでの座標軸なり羅針盤になったと思うこともある。
この7月、一人ぶらり旅で初渡英し、彼らの生きた足跡の一端を辿った。ここでは彼らの最期を見届け、彼らとの総括を書き記すこととした。旅行記は以下に書き留めた。
ジョンの盟友・スチュワート(スチュ)とジョン命名による4人の「ザ・ビートルズ」がLove Me Doでレコード・デビューを果たしたのは、1962年10月5日。
解散が明確になったのは、英紙デイリーメールがポールの声明を引用して報道した1970年4月10日だ。
現象として現れたのはこの間8年だったが、物事はいつも内輪で実質的に決まるもので、始まりも終わりも時間的にはもっと前だった。
ビートルズの始まりと終わり
先ずビートルズの核、ジョンとポールが出会わないとビートルズは生まれていない。
ビートルズが始動したのは、17歳になるジョン・レノンと、15歳になったばかりのポール・マッカートニーがリバプールの聖ピータズ教会の教会ホールで出会った1957年7月6日。
クオリーマンとしてその日最後の演奏が始まる午後8時までのリハーサルの間、20分間程度の出来事だった。
そして、実質的な終焉の時は、リーダー・ジョンが「終わりだ」とポールに釘を刺した1969年9月20日。
マネジャー・アランクラインが設定したキャピトルとのレコーディング契約更改の協議の場、ジョンはアップル・ビルでポールとリンゴに対し(ジョージはこの日、病気の母親を見舞う)、とりわけポールに向かってビートルズから離脱するとして終止符を打った。
この12年間、1960年代という時代は彼らによって作られた。
小さな危機とわだかまり
解散には至らずとも、小さな危機はいくつかあった。
1966年来日時の直前の6月、アルバム・リボルバー作成時、She Said She Saidの録音でジョンがポール提案のアイデアを拒否したため、ポールがへそを曲げて抜けた。
来日時にミュージックライフ編集長の星加ルミ子氏がホテルを訪れた時、ジョンは「直ぐに解散する」と発言し、マネジャーのブライアン・エプスタインが過剰反応をしている。
内輪ではポールがこの頃LSD吸引仲間でないことも背景にあった。
1968年8月、ホワイト・アルバム作成時にポールのドラミングへの注文が多くプライドを傷つけられ、疎外感も相まってリンゴは家に帰り、涙ながらに妻モーリンに「脱退した」と伝えた。
リンゴは、その後イタリア・サルジニア島で10日ほど休暇を取ったが、その間3人はポールのドラムでBack In The USSRを完成させた。
1969年1月、映画Let It Be制作時にジョージは解散(離婚)を口に出した後、ポールからのギター・ソロへの注文に頭に来たジョージが抜けた。
この時、ジョンは半分本気でエリック・クラプトンで凌ごうとした。映画Get Backのジョンとポールのふたりの会話では、曲のアレンジ、リーダーシップにも話がおよび、ふたりがジョージを顎で使ったことを悔やんでいる。
その後、ヨーコとリンダも参加したリンゴの家で行った内輪の大会議では、映画Let It Beの進め方などを話し合い、アップル社広報担当のデレク・テイラー(リバプーディアン)が説得して、ジョージはなんとか復帰した。
1968年から前兆はあった:4人の化学反応が起きなくなる
4人の化学反応ということが良く言われる。初期の頃は4人集まると化学反応が起きて曲が自律的にどんどん良いものになっていった。
天才ジョンとポールの発想から曲が産まれ、先ずふたりの間で最初の化学反応があり、その後に4人とプロデューサーのジョージ・マーティンによる次の化学反応が起こり、エンジニアのジェフ・エメリックなどによる手を経て編集され、曲は完成した。
彼らの目的は一点、新しい良い音楽を作ることだった。
しかし、マネジャー・エプスタイン亡き後、1968年2月のインド修行を経て、同年5月に始まったホワイト・アルバム作成の頃から、一人ひとりの音楽的志向や生き方が変わり、4人によるグループの結束力が弱まり化学反応は起きなくなっていった。
録音機材に8トラックを導入したこともあり、スタジオでも4人一緒に顔を合わせることなく別々に録音するようになっていた。
同年7月、ジェフ・エメリックは険悪化するスタジオ内のプレッシャーに耐えられず自ら降板。ポールがプロデューサーのジョージ・マーティンに無礼な言葉を投げかけた後だった。
そして、8月にはリンゴが一時脱退。
この頃、ジョンは妻シンシアを捨てヨーコにべったり、ポールは女優ジェーン・アッシャーとの婚約を破棄。
ポールの新たな恋人の家にこの4人が一時期一緒に居たが、「お前はジャップ女とイカしたつもりでいる」とポールが書いた封筒をジョンが見て愕然とする。ふたりの人間関係にも亀裂が入った。
10 月にはジョンが麻薬所持で逮捕、11月にホワイト・アルバムは完成したが、危機感を抱いたセカンド・ボスのポールは、何とか4人が同じ場所に一緒に集まって演るという原点回帰を目指した。
1969年1月のレット・イット・ビー・プロジェクトで4人の結束力は・・・
1969年1月のジョージ脱退の危機を乗り越えて1月30日、アップル・ビル屋上のゲリラ・ライブ当日を迎える。ジョージは「意味がない。」と屋上での演奏に乗り気ではなく、ポールも若干不安で「屋上で演る必要はない。誰のために演るんだ?」と躊躇していた。もうすでに4人はアップル・スタジオに集まって、別々ではなく顔を向き合わせていたからだ。
一方、リンゴはやる気になっていたところ、ジョンの一言「演っちまおうぜ」で、4人はオフィス街のランチタイムに屋上へ登り本番を迎えた。
屋上に出て演奏すると気がみなぎり、いままでのリハーサルが奏功し、寒くて手がかじかんでもギグは成功し、4人ともこの化学反応に満足だった。
しかし、これが人前で行う4人による最後のライブとなり、アップル・ビルにはその時の42分間の音が残った。
マネジメントとソング・ライティング(音楽出版権)の問題
1969年3月、核となるジョンとポールは競い合うように結婚、グループのことではなく必然的に自分たち個々の人生を考えるようになる。
その後、彼らにはマネジャーとソング・ライティング上の問題という彼らの基盤にかかる試練が降りかかる。
3月12日:ポールとリンダ結婚、3月20日:ジョンとヨーコ結婚。
(メンバーは誰も式に参列してない)
3月25日:ジョンがオランダのアムステルダムでベッド・イン。
4月 9日:テムズ川などでフォト・セッション。
ポールはこの時、デビュー前の1957年に3人で着ていた同じカーボーイ・シャツで臨む。ジョンとジョージは気が付いてくれるかと思い12年前のシャツをわざわざ着た。ポールはこの時点でもふたりに分かるようにゲット・バック、と言っていたのがいじらしい。
4月22日:ジョンは、ますますヨーコにべったりとなり、ジョン・オノ・レノンに改名。
5月 9日:マネジャー問題で亀裂。
ポールは、アラン・クラインへのマネジメント・フィーが高いとし、レコード売上による印税収入の20%ではなく15%と主張。
衝突した3人はポールをスタジオ(オリンピック・サウンド・スタジオ)に残して出て行き、ポールは今までにない疎外感「マイ・ダーク・アワー」を味わう。
ポールは後に法廷で「ビートルズの歴史のなかで、和解しがたい不和が生じたのはこの時が初めてだった。」と証言した。皮肉にも自分たちをマネージすべきマネジャーによって4人は分断された。
5月19日:自分たちのソング・ライティング会社ノーザン・ソングスがATV(英国テレビネットワーク会社)に買収される。
アラン・クラインを嫌ったコンソーシアム側はATVにつき、ATVはノーザン・ソングス株式の過半数を取得して経営権を把握。
後にATV代表となったディック・ジェイムスは、このときに自身保有のノーザン・ソングス株式をジョンとポールに相談せずに売り渡している。ディック・ジェイスは、アラン・クラインによるふたりの亀裂の兆候を見ていた。
経営権掌握という株式取得のゴタゴタの過程で、ポールは抜け駆けしてノーザン・ソングスの株式を買い増している。
ジョンはこの行為に対し、「バカ野郎」、「見下げ果てた行為だ」、「おれたちのなかから裏切り者が出たのは初めてだ」と激怒。
このことは、マネジャー問題に追い打ちをかけてふたりに決定的な亀裂を生んだ。
ポールは自分たちのためと思っての行動だったかもしれないが、ジョンは自分たちの結束の問題と捉えていた。
自分たちのソング・ライティングのパートナーシップに関わることなので、ジョンはお互いの信頼の絆が切れたと感じたのだと思う。
ポールは、Get Backできない状況を自ら作り出してしまった。
5月26日:ジョンは、カナダのモントリオールで再度ベッド・イン(7月4日Give Peace A Chanceをリリース)。
この時点でジョンは、ビートルズの存続か、自分で生きていくか、まだもやもやしていたが、ヨーコとの平和活動、ヨーコとの化学反応に手応えを感じ、ジョン・レノン個人として出来ることのほうが多いと思い始めていた。
(続く)
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