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ビートルズが終わる(2) 1969年6月~アビー・ロードまで

1969年5月、亀裂を生んだ自分たちのマネジメント、信義を破ったソング・ライティングの危機を迎え、その後解散が秒読みとなる。
時計のネジを巻き直して時間を戻すため、7月からのアビー・ロード制作では、お互いが提示する曲のレコーディングによる化学反応に望みをかける。

4人は6月の休暇を経て、7月と8月にアビー・ロードスタジオの予約を入れ、前回のグリン・ジョンズではなくジョージ・マーティンに再びアルバムのプロデュースを依頼する。この時、ジョージ・マーティンは、無理難題を持ち込まないように釘を刺す。

ジョージ・マーティンもこのアルバムが最後だと分かっていたので、丁寧にオーケストラ・スコアを作り、美しい3声コーラスを書き上げた。最後の仕事は、彼らに花道を飾らせたい、有終の美にしたいという深い愛情、心意気さえも感じる。
最後までクールで大人な紳士であり、彼らの良き先生であったとつくづく思う。

ジョンはアルバム・アビー・ロードのレコーディング前に、「自分の曲を片面に集めて、 片面にはポールの曲を集めよう」と言っていたと、アビー・ロードスタジオ・エンジニアのフィル・マクドナルドは語っている。
この冗談のような発言をジョージもポールも聞いたと思うが、ふたりの反応は分からない。

危機回避という最後の賭けに出たアビー・ロードができるまで
この時点でジョンは、ポールのスタジオ入りの出方によってはまだ戻れる、という一縷の望みを抱いていたかもしれない。彼らが絆を確認し結束力を高め、新たな化学反応を起こすのは本業の仕事場であるスタジオだったからだ。

7月1日からスタジオ入りし、翌2日、ポールはよりによって終焉を強く意識させるGolden SlumbersとCarry That Weightを持ち込んだ。「かつて、家に戻る道はあった」、「責任はつきまとう」と。
一方、ジョンは7月21日にCome Togetherを持ち込み、「俺と一緒に」と、自分を含め4人に自由になることを伝える。

7月23日、ポールはEnding(仮題は後にThe Endとなる)を持ち込み、3人のリード・ギターとドラム・ソロを「記録」しようとした。ポールの最後の「記録」という意図が見えただけに、4人は緊張感を高め我を出した見事なソロ・バトルを残したのだが。

ジョンとポールの潜在意識の心情吐露合戦が始まり、彼らはがっぷり四つではなく、4人が八つとなってぶつかり合い火花を散らした。民主的なチームは、全員一致で選曲したアルバム制作を進めた。
ジェフ・エメリックは「1963年頃の4人揃ったビートルズが演奏している」とジョージ・マーティンに語り、マーティンも「4人がお互いを我慢できないと思ってるなんて想像もできない」と手応えを感じていた。

その結果、アビー・ロードという最後のアルバムには、全体的に妙な緊張感が漂っている。

Come Togetherのボーカル入れ
(ヨーコが撮影)
右は元アップル社員が7月23日に撮影    
右端:録音の合間にホッと一息
(何とも自然な良い笑顔に救われる)

ジョンがB面メドレー「流行りのロック・オペラ」を嫌ったのは、ポールとジョージ・マーティン主導の仕事だから、というヤワな理由ではない。
解散話につながるような切実な訴えが綺麗な曲として続くのではなく、一つひとつの上質のロックをアルバムに据えようとしていた。自分たちはロックン・ロール・バンドだという自負があったからだ。

なお、ジョンは7月9日に交通事故からスタジオに復帰しているが、ヨーコとベッドと共にスタジオ入りしたため、他の3人は困惑した。

解散への秒読みが始まる
1969年の7月から8月の間、世界では7月14日に映画イージー・ライダー公開、7月20日にアポロ11号月面着陸(この日、彼らは映画レット・イット・ビーの試写を見るが、ジョンは涙を流す)、8月13日~15日の間、米国ウッド・ストックで40万人を集めた野外フェスが開催され、ベトナム戦争反対等で起こったフラワー・パワーもこの後に終焉へと向かう。

日本では10月に新宿で国際反戦デーがあったが、私は札幌の小学校5年生で、アニメ「巨人の星」の大リーグボール2号・消える魔球が何故消えるかにうつつを抜かしていた。

ビートルズはウッド・ストック出演を断ったが、
ジミ・ヘンドリックスは
空爆音の「星条旗よ永遠なれ」を演った。


そして、無情にも8月は、ビートルズにとって実質的な解散への秒読みの月となった。
8月7日 :ジョージはヨーコが自分のビスケットを食べたことで一触即発、持ち込んだベッドについてジョンと口喧嘩を始めた。
8月8日 :アルバム・アビー・ロードのジャケット写真撮影
世界の頂上に登りつめたEverestではなく、仕事場のスタジオから去って行く姿の撮影に臨んだ。暑いなか、ここでもジョンの「さっさと合わせてやっちまおうぜ」という一言で、最後の横断の時に4人の歩調が揃い、撮影は10分程度で終わった。

最後に歩調を合わせてスタジオから去る4人
(リンダ撮影)

8月18日:The Endは、最後の最後までポールによって様々な編集が行われたが、いったん捨てたHer Majestyをこの日おまけとして追加した。
この時のポールの心情を考えると、「The Endというのは冗談だよ」と言いたかったのかもしれない。いったんは捨てられたと思った曲が冗談のように再び蘇ったことにポールは飛びついた。終わることは無いと。

ポールは、最後の哲学的名言のハモリを3人ではなく、こともあろうに単独でこの日に録音。
ポールの3人への投げかけだったのかもしれないが、ポールはアルバムのなかで自分たちの終焉を歌い、同時に同世代ファン等にも最後の謝辞を送ったのだと思う。
アルバム最後の3曲でポールなりに幕を閉じ釘を刺した。

ポールは4人のハートに矢を射抜く


8月20日:4人による最後の録音(I Want You)。
4人はI Want Youの最後の録音に臨み、ジョンは自分たちの今の状況になぞらえて、あえてモーグ・シンセサイザーで混沌とした嵐(ホワイト・ノイズ)を延々と起こし、最後をぶった切り「終わりだ」と自分の音楽で終焉を示した。

メドレーは固まりつつあったが、ジョンはメドレーに興味がなく、「俺はヨーコにぞっこんなんだ」の曲をアルバム最後に飾る意図があったと思う。ジョンなりの幕の閉じ方で釘を刺した。
当時、私はレコードで聴いたため、この表面最後の曲で放心状態となったが、裏返して最初のHere Comes the Sunに救われたことを思い出す。

まだメドレーや曲順等はきちんと決まっていなかったが、この日4人でアルバム構成を決めた。ジョンとポールの解散に対する考え方は、曲として衝突しアルバムに昇華した。
ひとつ一つの曲もさることながら、最期に力を絞り切ったB面メドレーは何回聴いても沁みる。

A面:                                                    
1.Come Together                              
2.Something          
3.Maxwell’s Silver Hammer                
4.Oh, Darling                                    
5.Octopus’s Garden                          
6.I  Want You (She’s So Heavy)

B面:  
7.Here Comes the Sun
8.Because
9.You Never Give Me Your Money
10.Sun King
11.  Mean Mr. Mustard
12.  Polythene Pam
13.  She Came in Through the Bathroom Window
14.  Golden Slumbers
15.  Carry That Weight
16.   The End 
Her Majesty
※Her Majestyは、ポールの意図を考えるとThe Endと一体だと思う。

8月22日:最後のフォト・セッション
4人はジョンの自宅ティッテン・ハースト・パークで最後のフォト・セッションに臨んだ。
購入したての新居ということもあるが、ジョンは、自分の家の庭で最後の写真を撮ることに拘ったのかもしれない。

ジョンの気持ちのなかでは、この時アルバム作成を終えて「辞めるか、何とか持ちこたえるか」、その決断のぎりぎりの綱引き状態にあったと思う。首の皮は一枚で繋がっていたというべきか。

映画レット・イット・ビーで起用したイーサン・ラッセルが撮影、ヘイ・ジュードのジャケット写真で有名なこのフォト・セッションでは、合計15か所で撮影が行われたが、ラッセルが「みんな不幸に見えた」と言うほど、笑いのないショットが続いた。

一番最後のショットは、誰の発案か分からないが、4人が崖淵のようなバルコニーに立った。4人の目線はカメラに集中し、それはエベレストの頂上に登ったようにも見えた。

左:4人の視線は別々で上の空 
右:最後のショットは横尾忠則氏がイラストにしている


9月8日:3人でアビー・ロードの次のアルバム構想を協議
ジョン、ポール、ジョージはアップル・ビルでアビー・ロードの次のアルバム構想を協議(リンゴは入院中)。

次回作としてバンドのソングライター、つまりレノン、マッカートニー、ハリソンの3人が、それぞれ4曲ずつ作曲、スターキーも2曲作ることを提案している。

映画Get Backのなかで、ジョージが1月の時に「吐き出すほどの曲がある」といって、ジョンに理解を求めている。このことも背景にあった筈で、ジョージの曲数はふたりと同じだ。

そして、ジョンは「レノン・マッカートニー神話」に言及し、パートナーシップを解消して今後はそれぞれの名前を個別にクレジットしようと提案する。(2019年マーク・ルーイスン氏の談話を英紙ガーディアンが公表)

リーダー・ジョンとしては、ビートルズを永らえるにはこれが良いと思って提案したのだろう。
しかし、ポールはジョージの過去の曲を認めず、ジョージは今までジョンの協力がなかったことに不満、ジョンはポールの曲を批判・・・前向きで建設的な協議にはならなかった。

このため、ジョンはホトホト嫌気がさして存続を諦め、ここでいよいよ脱退を内心で最後に決断したのだと思う。
ジョン自身も回顧している、「トロントへ行く前から分かっていたのさ」。

9月12日:ジョンは個人としてトロント・ライブに参加。
当初ジョンは9月8日の協議のことを思ってか、ジョージに参加を打診するもバンドの前衛的なスタイル(ヨーコ参加)を理由に断わられている。結果として、ジョンはクラプトンとのライブ演奏で手応えを得る。

1969年9月12日(金)カナダ・トロントでライブ  
(1月の屋上ゲリラ・ライブ以外で人前に出るのは3年振りだった)
ジョンはアラン・クラインやプラスティック・オノ・バンドのメンバーに解散を伝えていた。
ジョンのトロントでのライブ後の9月16日(火)
ポールの日記には既に録り終えていたThe Endの文字が書かれていた。


9月20日:脱退宣言

クラインが設定したキャピトルとの契約更改の協議の場、ポールは9月8日と同じように「もう一度、規模の小さなギグに戻るべき。」「この先どう変わるか分からないし、そのあとで終わりにしたくなるかもしれない。いや、自信を持てるかもしれない」「Topper most of the mopper mostだろ」などとジョンに向けて話した。

しかし、ジョンは聞く耳を持たず、自分には自分の生き方があるとしてポールの提案を次々と拒否。
そして、離婚を引き合いに「お前はバカか。そのくそったれ頭にはまだ呑み込めないのか」、「もう終わりだ」と言い放ち、内輪では解散が決まった。
リーダー・ジョンの脱退は音楽的な方向性というより、それぞれの生き方に関わるものだったため決定的となってしまった。

ロード・マネジャーのマル・エバンスに自宅まで送り届けられたポールはショックを受け、この後暫くは酒浸りとなる。苦楽を共にしてきたマルも泣き崩れた。


9月26日:アビー・ロードをリリース
様々な思いのなか、4人が最後を意識して力を込めたアルバムは解散を明かすことなく、55年前のこの日に世に投げかけられた。
しかし、このロックの古典は色褪せるどころか、年を重ねるたびにますます黄金の輝きを増しているように感じる。

年が変わり、1970年1月3日に、ジョージはスタジオ内のスタッフに向かって「ジョンは脱退したが、3人は今後もレコーディングを続ける」と語る。4月の新聞報道を待たず、内輪では解散がすでに既定事実化していた。
そして、翌日4日、リーダーを除く3人が集まり映画のためのI Me Mineをレコーディングした。

(続く)


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