ブライアン・エプスタインへの追悼(1)
ビートルズのマネジャー、ブライアン・エプスタインは、リバプールでビートルズを見出してからイギリス国内で彼らを音楽業界でトップに押し上げ、アメリカでの成功、世界制覇へと導き、1960年代という時代を築いたビートルズを支えた影の立役者だった。
ブライアンの粘り強い「地を這うような営業活動」がなければ、EMIとのレコード契約はなかったし、彼の努力がなければ、私たちはビートルズを知ることができなかった。
大金が動いたビートルズのもと、リバプールから成りあがった運命共同体の若者たち、就中ブライアンの苦悩は想像に絶するが、彼の死後、ビートルズは彼らなりの形でブライアンを弔った。
運命共同体
ビートルズの音楽面を支えたジョージ・マーティンは、彼らの先生のような立場で後世に残る音楽をプロデュースした。
彼らが信頼した仕事仲間、リバプール時代からの友でアップルを支え続けたニール・アスピノール、ロード・マネジャーで縁の下の力持ちのマル・エバンス、広報担当のトニー・バーローもビートルズにとっての内輪だが、全員既に鬼籍に入っている。
そして、最も近くで彼らを公私にわたり支え続けた内輪は、ブライアン・エプスタイン(内輪ではエピ―と呼ばれた)だった。
リバプールのキャバン・クラブで彼らを見出し、レコード契約を行い、イメージ戦略でデビューさせて売り出し、ファン・クラブやその後のツアー全般のマネジメント、アメリカ進出など、彼らが前進するためのアクセルを踏み、音楽面以外の全てを彼らと一心同体で進めた。
ブライアンを含む内輪は、陰ながらビートルズとその歴史を歩んだ正に運命共同体だった。
1966年にビートルズがツアーを止めて、音楽面での成長を最優先させたとはいえ、ブライアンは、1961年から1967年まで彼らを公私にわたり、常に献身的に支えた。
1961年、キャバン・クラブで起きた衝撃
ビートルズは初代マネジャーによるドイツ遠征から7月3日に帰国し、主にリバプールのマシュー・ストリートにあるキャバン・クラブでほとんど毎日のようにライブ演奏をしていた。
当時、ブライアンは、キャバンから徒歩5分のNEMSレコード店を経営していた(1962年NEMSエンタープライズとなるが、以下NEMSと記載)。
そして、当時購読していた音楽雑誌マージー・ビートで彼らを知るところとなり、10月28日にマイ・ボニーのレコードを求めてきた客の要請にあったグループということで興味を持ち、1961年11月9日に人気上昇中の彼らをキャバンで観た。
ランチ・タイムのギグを観るため、部下のアリステア・テイラーを伴って、地下の薄暗い洞窟のような店に足を踏み入れた途端、汗臭い熱気、聴いたことのない理解を超えた音楽がふたりを出迎えた。
ふたりにとっては経験したことのない空気、未知の世界だった。
黒い革ジャンを着た青年達がエネルギーを爆発させており、荒っぽい野性味溢れる音と彼らの姿にふたりは惹きつけられた。
ブライアンは、そこに来ていた女の子たちと同じ目線で彼らを見て、彼らの虜になってしまったのだろう。
人を動かすモチベーションは様々だが、ブライアンを内側から動かし続けたのは、その若者たちのエネルギーだった。
この時、ブライアンは、マイ・ボニーやオリジナルのハロー・リトル・ガール、シャウトなどを聴いた。
ここで、ブライアンは彼らとの明るい未来を確信した。
マネジメント契約への署名
1961年12月3日:ブライアンは先ず彼らにNEMSでマネジメント契約を説明した。その時、ジョンにとってはポール、ジョージの加入に続き、3番目の大きな決断を下すこととなる。そして、翌年1月24日に契約を交わす。
しかし、ブライアンはビートルズの将来を思って、自分の名前欄には署名をしなかった。この判断はブライアンらしいとはいえ、ビジネスマンらしからぬ行動だった。(その後、1962年10月の契約には署名している)。
地を這うような営業(EMIとデッカ)
ここではレコード契約に至る6か月の経緯について、マーク・ルーイスン著「ザ・ビートルズ史」、レイ・コールマン著「ビートルズをつくった男」などから以下にまとめた。
1961年12月1日:
彼らの明るい将来への飛躍として、レコード契約の必要性を感じていたブライアンは、先ず当時レコード業界最大手EMIに接触する。NEMS支配人という地位を前面に出し、EMIロンドン本社のロン・ホワイト(マーケティング本部長)にマイ・ボニーを聞かせた。
同日、ブライアンは、新聞リバプール・エコーに寄稿していたリバプール出身のトニー・バーローに対し、音質の悪いキャバンのライブ・テレビ音源(アセテート盤)を聞かせ、トニーがデッカのビーチャー・スティーブンス(マーケティング部長)に連絡した後、ブライアンは、デッカのビーチャーにマイ・ボニーを聞かせた。
どうしてもレコード契約が欲しかったブライアンは、EMIとデッカの二股で駆け引きを行うこととした。
EMIの最初の反応(拒否)
1961年12月8日:
EMIは、ブライアンに対して「このタイプのグループを十分な数だけ保有している」との理由で、ビートルズ(当時のドラマーはピート・ベスト)のレコード契約を当初断っている。
デッカ・オーディション
1961年12月13日:
デッカのマイク・スミス(制作部長)がキャバン夜の部に訪れ、彼らをロンドンのオーディションに招いた。
同年12月31日、彼らは希望を抱きながらニール・アスピノールの運転するバンに乗ってリバプールを発ち、ロンドンのデッカ・スタジオに向かった。雪嵐のなか10時間をかけて到着したロンドンの夜のトラファルガーは雪で覆われていた。
翌日、1月1日の午前11時から始まったオーディションで、彼らは15曲演奏したが、気持ちとは裏腹に緊張もあってか、キャバンでのライブの魅力を十分に発揮することができなかった。
お辞儀とスーツ
この頃、ブライアンはリーダー・ジョンを自宅で説得した。ロンドン進出のため、ツアーでのギャラ・アップを約束するとともに、ステージでの喫煙・飲酒を止めて、こぎれいな服で演奏することを提案、上昇志向のポールは直ぐにその提案を受け入れ、ジョンもその提案を渋々受け入れた。
1962年1月21日、ブライアンは、シャドウズのコンサートを彼らに見せてライブ演奏の後に、ブライアンが通った英国王立演劇学校で教わったお辞儀をすることも納得させた。
同年1月29日、ブライアンは、リバプールのマージー河対岸にあったイタリア洋装店のベノ・ドーンで40ポンドのモヘア・スーツを彼らに買い与えた。
※当時のレートは、1ポンド=1,000円なので現在価値で4,000円として16万円の高級スーツ。
ブライアンは、その間にもパイ・レコード、オリオール・レコード、フィリップス・レコードにもデッカでのオーディション・テープを売り込んでいたが、気に入られることはなかった。
デッカの反応(不合格)
1962年2月6日:
ブライアンは、デッカ本社の重役室でアーティスト発掘担当であるA&R(Artists and Repertoire)部門トップのディック・ロウから、不合格通知を受ける。
「グループはもう時代遅れです。特に、ギターを持った4人組のグループはもう過去のものです。」という返答に対し、ブライアンは応えた。
「シャドウズなんかより、もっと有名な人気者になりますよ。エルビスよりもビッグになります。」
HMVからEMIジョージ・マーティンへ
EMIとのレコード契約獲得に至るまでは少し複雑な背景事情があったものの、いずれにせよブライアンの努力は奏功した。
なお、登場人物が多いため、巻末に添付で関係者間を図式化したので、適宜ご参照いただきたい。
1962年2月8日:
ブライアンは、ロンドンのオックスフォード・ストリートにあるHMVを訪れ、当時の総支配人にデッカ・テープを聞かせてEMIへの営業を依頼した。
この時、ブライアンはデッカ・テープをアセテート版レコードに移し替えてもらっているが、カッティング・エンジニアのジム・フォイは彼らの音を評価し、HMVビル4階にオフィスを構えていたEMI音楽出版部門(アードモア&ピーチウッッド)の責任者シド・コールマンに伝えた。
早速ブライアンはシドにデッカ・テープを聞かせたところ、シドはレノン・マッカートニー作曲の出版に興味を持ち、ジョージ・マーティン(当時EMI傘下パーロフォン・レーベル責任者)に伝えた。
1962年2月13日:ジョージ・マーティンとの初対面
ブライアンはジョージ・マーティンと初対面をはたす。前回EMIから断られていたことには触れず、HMVでカットしたデッカ・オーディションのレコード(Hello Little Girl/Till There Was You)をジョージ・マーティンに聴かせた。
しかし、レコードを聴いたジョージ・マーティンは、「打ちのめされた訳ではなかった。」と述懐している。
出版のシドはブライアンが帰った後、営業担当のキム・ベネットにLike Dreamers Doを聴かせたところ、「チャートに入る曲ですよ。今までにないサウンドだ」と評価した。
そして、音楽誌出版会社にも拘らず、EMI本社からレコード制作の権利を貰ってでも経費を負担してレコードを作るべきとの提案をしたが、EMI取締役のレン・ウッドからは音楽出版に専念するように言われてしまう。
この頃、ジョージ・マーティンの秘書との不倫が社内スキャンダルとなり、ジョージ・マーティンは、取締役レン・ウッドにお冠をもたらす。
しかし、ジョージ・マーティンは、仕事ぶりと人間性でEMI会長からも一目置かれていたため解雇する訳にもいかず、取締役レン・ウッドは、アードモア&ピーチウッッドに対して、Like Dreamers Doの版権を与えることとし、その面倒な雑務をジョージ・マーティンに引き受けさせることで自分の矛を収めることとした。
取締役からの指示を受けたジョージ・マーティンは、ブライアンに対してレコード契約を行うことを告げる。
マーク・ルーイスンが「ザ・ビートルズ史」のなかで、従来語られなかったこの事実を公表した時、私は、歴史はこのようにして作られたのだと、なんとも言えない微妙な感慨をもった。
1962年5月9日:レコード契約
4人を見出してから半年を過ぎたこの日、ブライアンはEMI本社でジョージ・マーティンからレコード契約締結(パーロフォン)の内容を知らされ、渇望していた契約をついに獲得する。
ブライアンの地を這うような営業が奏功した瞬間だった。
1962年6月6日:レコーディング・セッション
ジョージ・マーティンは、3人のボーカルを評価するため、6月6日にEMIレコーディング・セッションを行うこととした。
セッション後にジョージ・ハリスンの「ネクタイ気に入らない」発言もあり、ジョージ・マーティンは、彼らのユーモアや人柄などの人間性にも惹きつけられ、彼らと一緒にレコードを作ることを決意した。
当時ジョージ・マーティンは、第二のクリフ・リチャードを探していたが、彼らをLove Me Do/P.S. I Love Youでレコード・デビューをさせることとした。(ピート・ベストは、この後8月にビートルズからではなく、ブライアンの口から解雇となる)
デビュー以降は知ってのとおり
1963年1月にシングルのプリーズ・プリーズ・ミーをリリース、ビートル・マニアの登場、ロイヤル・コマンド・パフォーマンスを経て、1964年には初渡米を果たす。(アメリカ制覇を成し遂げたのはブライアンの緻密なアメリカ大作戦があったからだが、このエピソードは割愛。)
1965年のMBE受勲、ニューヨーク・シェア・スタジアム公演、1966年の日本公演の後、帰りの空港で暴徒に襲われたフィリピンへ、同年8月にはジョンのキリスト教発言後のアメリカ・ツアー(最終公演はキャンドル・スティック・パーク)で、彼らは観衆を集めた人前でのツアーを終える。
そして、4年間ほとんど休みなく1,400回以上続いた、疲れるだけのツアーは中止し、その後はアルバムづくりに注力するようになる。
(次回(2)へ続く)