院政・不破氏が志位委員長の後継者選びに動き出す茶番劇

結局のところ、院政の不破氏が後継者選びに乗り出し、山添拓に白羽の矢を立てたそうだ。そうなると、松竹氏から党首公選制を迫られて、志位委員長による民主集中制をキーワードに党の拠って立つところの理念的な絶対性を反映した説明は何だったのか、と私は思わざるを得ない。今でも、赤旗は、その民主集中制の正しさの説明と松竹氏への罵倒で終始している。
まるで茶番劇ではないか。茶番劇をこの政党は国民の前で演じているのだろうか。
さらには、問題は、メディアが松竹氏への除名を批判したことに対し、「結社の自由」を盾にメディアへ非難応酬したことは、憲法理解の底の低いことを露呈しまい、「結社の自由」を盾に非難応酬することの正しさを改憲派・小林節に赤旗で述べさせて、果たして納得できるものなのだろうか。
そして、問題は、党員たちは、松竹氏に対し、組織防衛として、SNSなどで発表している。だが、その純粋性は院政不破氏による後継者選びにより裏切られる。つまりは、党員は将棋のコマなのだ。将棋のコマよろしく、末端党員は、あきもせず、憲法9条を守れ、岸田大軍拡を止めろ、としか言えない。山添氏が後継者なら良い、という意見も散見されるが、だったら、それは、不破氏が選べば間違いねえや、と言っているのと変わりないから、志位委員長を今まで擁護してきた言葉を手のひら返しをしている。そんなことが倫理的に許されるわけがない。
さらに言えば、不破氏に何も言えない志位委員長がアメリカへ日米安保条約破棄など通告できるのだろうか。志位委員長は、自分の愚かさに気づいていない。
そもそも、一政治結社にすぎない日本共産党が、松竹氏の個人の言論を抑圧する権限などあるのだろうか。つまりは、党員には、党などのしがらみを離れた、いわば、カントが定義した、パブリックとしての発言は許されないのか。カントが定義したパブリックは、公民や官吏ではなく、様々な組織や地域のしがらみを離れて、私個人が世界市民として発言することをさしている。
今回の松竹氏の行為は、純粋にパブリックではないかもしれないが、除名されたことにより、パブリックの意味を帯びてきた。
だが、今回の除名問題の核心は、日本には封建遺制が残存しているから二段階革命を主張しているその党が、何よりも封建遺制が色濃く残っている政党であることを顕わにした。
この自称共産党は、どこへ行くのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?