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【おばあちゃんから聞いたおもひで話】

皆さんにも、おばあちゃんがいる、もしくはいたと思います。

私のおばあちゃん、父方、母方の祖母どちらもすでに亡くなっています。

フォローさせて頂いている方が、防災の日に投稿したおばあちゃんの昔話に興味があるという事でちょっと思い出して書いてみたいと思います。

同居していた父方の祖母から聞いた話です。

まずは、祖母の簡単なプロフィール
祖母は明治44年(1911)生まれ 、没年 平成25年(2013)なので102歳の長寿でした
生まれ、富山県 豪農の娘さんだったらしい
何故、祖父と結婚したのかは話してはくれなかった
※聞いたかもしれないけど、忘れました

以下の5つをとりあえず思い出しましたので
以下のラインナップでお届けします。

●関東大震災の時のはなし
●やぶうなぎ
●ああ野麦峠
●GHQのはなし
●鰊番屋のはなし

●関東大震災の時のはなし

1923年(大正12年)祖母が12歳の時に起こった出来事

詳しい事はwikiなどを参照

https://www.bousai.go.jp/kantou100/

9月1日の昼ちょっと前にそれは起こったとの事を話していました。

尋常小学校に通っていたとの事でしたが、地震発生日は土曜日、
家にいたとの事なので多分夏休みだったのでしょう。

ぐらぐらと揺れ、家の石垣が崩れたと話ていました。
※くずれた石垣から次のやぶうなぎの話につながります

今の様に情報がすぐ伝わる訳ではないので
関東(東京や、横浜)がもの凄い被害が出た事を
翌日、だか、翌々日に知ったとの事でした。

このくずれた石垣からたくさんのへび、「あおだいしょう」「マムシ」
やらが大量に家の前の道路にでてきて怖かったといっていました。

そして、崩れた石垣を直すのにしばらくかかったとの事を話していました。

これが、関東大震災について聞いたはなしです。
この時に同時に聞いた話で、やぶうなぎの話を一緒に聴きました。
(これは次を読んでください)

震源地から当時祖母が暮らしていた富山までは300Km程度、
そこで石垣がくずれるってどれぐらい凄いゆれだったのか
って考えちゃいますね。

免振や耐震の考えがない時代とはいえ、多少の揺れでは崩れない様に
組まれていた石垣が、震源から300Kmも離れた場所で
崩れるとはものすごい揺れだった事がうかがえますよね。

これを読んでいる人の記憶に新しい、大きな地震といえば東日本大震災ですね、

私は当日新横浜の駅ビルの高層12回のオフィス内の会議室で会議中だったのですが、
実際の地震時は当然ながら、会議室はぐらぐらと揺れたため一歩もでれず、
あのビル免振構造らしく、地震後も30分位しばらくビルが揺れていました
(免振のために鉄球が入っているらしい)

その後も、自宅の地区が輪番停電になったり、電車が間引き運転になったりと
ガソリンが供給されず、スタンドに並んだりと震災地から離れた場所の東京、
神奈川でも平静を取り戻すまでに2,3週間は時間を要した記憶があります。

ちょっと当時と東日本大震災時の被害総額を調べてみました。

被害総額くらべ

国家予算の約4倍の被害額その位凄い被害だったって事ですね

最近、地震も多いし
南海トラフ地震がくるくるって良くいわれているので9/1におばあちゃんの
話を思い出しました。

●やぶうなぎ

やぶうなぎって解りませんよね
おばあちゃんに聞いた話

へびですね。

やぶうなぎという名で食べるって話です。

先ほど「関東大震災の時のはなし」で石垣が崩れたって話はしました
この石垣が崩れた時に沢山の蛇がでたって話で、
美味しくいただいたって話でした。
但し、美味しく戴いた後にやぶうなぎの正体を教えてもらった
との事でした😂
※超ショート (笑)

●ああ野麦峠

みなさん
「ああ野麦峠」って映画知っていますか?

野麦峠は長野県にある峠です

この映画、
岐阜県飛騨地方の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて
長野県の諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出た、明治、大正時代の話です。

過酷な作業で働きに出た娘さん達の多くが結核等になって死んでしまう
みたいな話だった。

おばあちゃんの友達も、富山からここを越えて
諏訪とか岡谷の製糸工場に働きに行っていたとの事を話して貰いました。

みんな、おしゃれで化粧とかして綺麗なって帰ってくるんだけど
皆、結核とか病気になってなって死んじゃう娘さんもいたんだとか
おばあちゃん家は、大地主だったので女学校に通ったって話てました。

なんで、この話を聞いたのかな、記憶にはないのだけれど
多分映画を見てたので話してくれたんだと思います。

ああ野麦峠 詳しくは以下リンクを見てみてね

●GHQのはなし

おばあちゃんの実家は、おばあちゃんが女子学生時代
富山で超土地持ちだったとの事で、当時は小作農家に土地を貸し、
米をもらうって事で生計を立てていたとの事。

第2次世界大戦の終戦後、GHQの指示によって土地の解放政策がとられ
土地が国に召し上げられ、おばあちゃん家の小作農の人は全員自作農になったとの事、

しかし、
それでもかなりの土地があったらしく、その土地は全部
貸し出したらしい(自分ちで米を植えるには人手が足りなかったらしい)

今でも、自作農の人に土地を貸しだして米を貰っているとの事
を子供の頃は話してもらいました。

GHQの土地政策については以下のリンクを参照してください。

●鰊番屋のはなし

この話は、おばあちゃんがおじいちゃんと結婚し北海道の何か所かに
赴任し日本海に面した町に住んでいた時の話です。

おじいちゃんは、北海道で教員をしていて結構いろんな処に赴任した
との事です。

場所は聞かなかったのですど、ホントに浜辺に鰊が生きたまま
打ちあがったって話でした。

現在では、信じられないかもしれないですが昭和20年位までは
鰊がその位いたとの事でした。
※鰊今では高級魚

おかずに困らなくていいねって話をしたら笑ってました。
流石に秋から冬にかけていつも鰊では飽きちゃいますよね

どの位とれたかは以下のリンクを参照してください。

今日の処はここまで

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