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一冊のノート
美奈子はダイニングテーブルに広げた翔太の成績表を見て、ため息をついた。
学期末の結果は相変わらず。
算数は「頑張りましょう」、
国語も「やや不安定」。
6年生になっても、勉強に向き合おうとしない翔太に、どう接したらいいのかわからなかった。
その夜、翔太がゲームに夢中になっているリビングに、美奈子の声が響いた。
「翔太、もう9時だよ。宿題はどうしたの?」
「あとでやるよ」
「いつもそう言って、結局やらないじゃない。
中学生になったらもっと大変なんだからね!」
翔太はコントローラーを放り投げ、
むっとした顔で言い返した。
「わかってるよ!
でも、お母さんは僕のこと何にもわかってない!」
それを聞いた美奈子は一瞬言葉を失った。
翔太の目に浮かぶ涙を見て、胸がぎゅっと痛む。
それでも、何を言えばいいのかわからなかった。
翌日、美奈子は掃除の途中で翔太の机に目をやった。最近は自分の部屋に閉じこもりがちな翔太。
机の上には未完成の宿題プリントが散らかってる。ふと、引き出しを開けると、一冊のノートが目に入った。
「何かしら、これ…」
中を開くと、翔太が書き込んだサッカーの戦略図やゲームの攻略メモがびっしり詰まっていた。
ゴールを決めるパスのルート、
敵を倒すための計画。
それらの間に、算数の問題が雑に書かれていた。「サッカーのボールを何メートルで蹴れば、ゴールに届くか」といった、学校の教科書では見たこともない内容だった。
美奈子はページをめくりながら、
ふと笑みがこぼれた。
「この子、こんな風に考えてたんだ…」
ずっと『勉強ができない子』だと思っていたけれど、実はこんなに頭を使っているなんて。
私、何も分かってなかったのかもしれない…
胸がじわっと温かくなった反面、
翔太を押さえつけるような態度をとっていた
自分への後悔が押し寄せてきた。
私は、翔太の可能性を狭めてしまっていたのかもしれない…。
その夜、翔太が部屋に戻ると、
机の上にノートが置かれていた。
美奈子がそっと声をかける。
「これ、見つけちゃった。
すごいじゃない、こんなに工夫してるなんて。」
翔太は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「別に…ただの落書きだよ。」
「でも、すごく面白いわよ。
これ、学校の算数の問題より難しいんじゃない?」
その言葉に、翔太の目が少し輝いた。
「サッカーの試合で、どれくらいの速さでパスすれば相手を抜けるか考えるのが面白くてさ。」
美奈子はふと、翔太の幼い頃を思い出した。
いつも遊びに夢中になりながら、
ブロックを工夫して積み上げたり、
虫の動きを観察して不思議そうに首をかしげたりしていた翔太。
そうだ、この子はいつも考えることが大好きな子だった。勉強が嫌いなのではなく、
自分のやり方で向き合っているだけだったんだ…。
「それならさ、学校の問題もサッカーみたいに工夫してみたらどう?」
美奈子はノートを開きながら提案した。
「例えば、ボールが20メートル先のゴールに届くのに何秒かかるか、計算で解けるかもよ。」
翔太は少し戸惑った表情を見せたが、
「それなら、ちょっとやってみてもいいかも…」
とポツリと答えた。
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それから二人は、算数の問題をゲームやサッカーに絡めて一緒に考えるようになった。
「ボールの速さ」をテーマに割り算を勉強したり、「試合の得点率」で分数の計算を練習したり。
翔太はいつの間にか、机に向かう時間が増えていった。
その様子を見守る美奈子の中で、
ある確信が芽生えていた。
子供にとって勉強は、ただ点数を上げるためのものじゃない。
この子が自分の好きなことを深め、
未来の可能性を広げるための「道具」なんだ。
私が教えるのは、正しい答えの出し方じゃなくて、
学ぶことの楽しさなんだ…。
学期末、美奈子は担任の先生から声をかけられた。
「翔太くん、最近自信がついてきたみたいですね。
算数の授業で手を挙げる回数が増えましたよ。」
家に帰ると、翔太が嬉しそうに報告してきた。
「お母さん、今日算数で初めて満点取れた!」
美奈子は心から微笑み、翔太の頭をそっと撫でた。
「やればできるじゃない。
お母さんも、翔太からいろいろ教わったよ。」
翔太は照れ臭そうに笑った。机の上には、
あの「光るノート」が置かれていた。
翔太にとっての新しい未来の入口が、
そこから始まっていた。