映画レビュー?『ハッピー・デス・デイ』~私にとっての恐怖とは何か
第二回「書け麻雀」で負けたのでまたもや罰ゲームで映画を見て感想文を書くことになりました。対戦よろしくお願いします。
あらすじで文章量水増ししたという噂の第一回の罰ゲームはこちら↓
さて、今回の感想文の題材となったのが『ハッピー・デス・デイ』だ。
どのような内容か、と言われたらそれは極めてシンプルに説明できる。
いわゆる「タイムリープ」ものである。
それも、殺人鬼に殺された後に同じ時間を繰り返す「死に戻り」。
何度も殺させることを繰り返すことで突破口を見つけ出し、元凶を叩いてハッピー・エンド。簡易版リゼロである。バイツァ・ダストといってもいい。いや、あれは殺したい相手を殺害できたら時間を戻すからちょっと違うか。
まあ、とにかくそんな目新しいタイプの話では無かった。
まあ途中で嫌になるほど話がつまらないわけでもなく、まあそれなりに見ることができる映画ではあった。
ただ…ホラー映画なのにちっとも怖くはなかった。
去年見た『女神の継承』の方がよっぽど怖かった。
恐怖を煽るような演出はまあいくつかあった。
ハッピーバースデイを不気味なオルゴールで鳴らしたり、殺人鬼に不気味なマスコットキャラクターの仮面をかぶせてみたりと…でも別に全然怖くなかった。どちらかというとコメディタッチだよな~という感じすらあった。
そういう演出より、「真犯人は誰なのか?動機は?」を追っていくサスペンス面の方がこちらとしては楽しめた気がする。
結局なんでタイムリープしてるのかは明かされなかった(と思う)が、タイムリープしていくうちに見えてくる真実の人間関係や主人公の自省と前向きな変心、そして意外な展開で飽きさせないようになっていた。先ほども例で出したリゼロとかジョジョとかもそうだけど、タイムリープものはわかりやすいし、面白くしやすいのかもしれない。
まあ、ということで『ハッピー・デス・デイ』 に関してはこれ以上の感想はない。とにかくホラーなのに怖くない、これに尽きる。
~感想文・完~
…じゃあ「怖い」ってなんなんだろうか?
自分が恐いものって何なのか?
罰ゲームなので、あと4000字以上書かなければいけないらしい。
ということで、そのあたりを掘り下げて話していきたいと思う。
メカZさんとジーニアスラジオというラジオ番組を週一でやっているんだけど、メカZさんがホラーが好きでいろいろよく見てるという話をしていた。
有名なやつでいうと『ミッドサマー』とか『犬鳴村』とか。去年見に行った『女神の継承』もたまにはホラーみましょうということでメカZさんと見に行った。
メカZさんはいわゆる「心霊」系のホラー映画はかなり好きと言っている。麻雀はデジタルなくせにこういうオカルト好きなんだよな、メカZさん。
一方、比嘉秀仁は「心霊」系のホラーはあまり面白味を感じない。なんというか、「怖がらせるだけの装置」であって、スカスカな感じがする。
実際に存在しないという意味では「妖怪・悪魔」などと同じなんだけど、そっちは滅茶苦茶好きなんだよな。伝説・伝承に依拠していてその姿が描かれることもあって、人間の想像/創造上とは言え、その姿形があることが大事なのかもしれない。その姿形が異形で(角があったり翼が生えてたりなど)あるからまた心惹かれるわけで。ただの中二病な気もする。
幼いころは水木しげるの妖怪辞典みたいな本を集めて暇があれば読んでいたなあ。そういうのが好きだからゲームもRPG(ドラクエとかファイナルファンタジーとか)にハマるのも一瞬だった。
妖怪とか悪魔とか怖いと思うものはほとんどないというか、心惹かれるものが多かった。それでも気持ち悪いというか恐怖を覚えたものもあった。
水木しげるが描いた「牧神パン」だ。
上のキャプションでも書いたように見つからなかったので代用で画像を載せたが、水木しげるの書いた「牧神パン」は全身真っ黒で顔はかなり人間にリアルに寄せており(まあ半獣人だから当然だが)、読者の方をジロっと見つけている絵で、子供心に「ワ…ワ…これは気持ち悪い」と恐怖心を覚え、毎日レベルで見ていた妖怪辞典のそのページだけ意図的に避けていた。それくらいインパクトがあった。それ以来今に至るまで見るのを避けようと思った絵や画像は、にちゃんねるでよく踏まされたグロ画像を除いてはないかもしれない。まあ今は成長もあって、そういう気持ち悪い絵などには耐性が付いたという説もある。
なんでそんな絵に特に恐怖を感じたのだろう?と今になって思いかえしてみるとやはり「かなり人間にリアルに寄せて」るからなのかと思っている。
「身近にありつつも得体が知れない、何をするかわからない」存在に対して怖いと思うとすれば、そんな存在って何?って言うとやはりそれは「人間」だ。
心霊も妖怪も神も現実に存在するものかどうかはわからない。わからないものは「無い」ものとして考慮に入れず、すべての物事を考え、行動するのが良いと私は基本的に考えている。麻雀における「流れ」や「運量」という考え方がそれらに該当するものの例である。
でも「人間」は実際に存在する。物理的に。いるのだから考慮せざるを得ないし、しかも自分の知らない人間は(時に知っている人間でさえも!)自分の想定しないようなとんでもない行動に出ることもある。存在するものは、危害を加えてくる可能性がどんなに小さくても現実化することがあるわけだ。
自分にとってはそれが「恐怖」の源泉になっている気がする。
ただ現在は、幼いころとは違って、それを忌避する形ではなく、「観察」するという形でそれを克服しようとするようになっているように思う。
小学校高学年~中学生くらいはホラーものが流行っていたこともあって、漫画やドラマや映画を見たりはしていたが、やはりあくまでフィクションなので、そういうものに対する「怖い」みたいな感覚は薄かった。
グロ系の作品も見なかったわけではないが、それはまた別の感情というか、恐怖するとはまた違った感覚だったように思う。痛覚を自分の身に想像で当てはめてしまったときの恐怖であって、恐怖に思うようなモノが実際あるということではない、というか。
そういったフィクションを超え、実際に「恐怖」として認識したのが高校生のときに起きたとある事件だ。
それは「神戸連続児童殺傷事件」。
かなり有名な事件なので、詳細は知っている人も多いだろう。
この事件が起こったのが私が住んでいる場所からそんなに遠く離れたところではなく、犯人の少年が自分に年齢が近く、劇場型犯罪でマスコミにバンバン報道されており、テレビを見ていてものすごくリアリティを感じた。
「少し地域がズレていたら、この犯人の少年と出会う可能性もあった」
みたいなことを考えると、なにか寒気のようなものを感じたのを覚えている。
しかし、このときは怖いものを避けるというよりは「いったいどういうことでこのような恐ろしいことができる存在になるんだろう?」という恐ろしくも興味を引かれるような対象でもあり、文春の供述調書など関連記事や本などを結構たくさん読んだ記憶がある。
結果としてそのとき初めて、世の中には良心を持たない人間、いわゆるサイコパス(現在は少しズレた意味で用いられることもあるが)が一定数存在するということを知った。
それをきっかけにシリアルキラーや凶悪犯罪の本を読んだりするようになった。これは中二病的な憧れとかではなく、「世の中には常軌を逸した恐ろしい人間がいて、それについて詳しく知っておくことはきっと重要なことだ」と思っていたからだ。
現在でもその手の動画や文章などはたまに見ている。
https://www.youtube.com/watch?v=xHlFdbOe1hQ
Youtubeでいうとこういう感じのやつ。
いろいろ見てきた私個人の結論としては、「人間に恐ろしい常軌を逸したことをする奴がいるのは、生き物としてのバグである」というものに行き着いた。
よくインターネットなどでも「心の闇」みたいな話をよく聞くけれど、そういうのは私自身はあまり信じていない。多様性の一環として、そういう抑制の利かない人間がごくまれに生まれてきてしまい、その中でも特に常軌を逸したものがシリアルキラー等になってしまうのだろうな、というものだ。幼年期の家庭環境なども大きな要因だとは言われているけど、引き金にはなっても直接原因はやはりブレーキが利かない本人の心のありようなんだろうな、と。ブレーキをかけられないことを自分以外の何かに責任転嫁して、欲望を正当化して犯罪、殺人を犯してもよい理由を作り出す。「悪いのは儂ではない、この手が悪いのだ」という他責思考。
…でも、この手の思考は程度の差こそあれ、現在のインターネットでもたびたび見るものだ。結局「人間」というのはそういう意味で残酷なことを行えてしまう「恐ろしい」存在だと私は思っている。
そういう「恐ろしさ」が極まった事件といえばこれだ。
リンクは貼っているけど、これを読むのは結構キツいので読むなら覚悟して読んだ方がいい。この事件を元にしてるのが『闇金ウシジマくん』の洗脳くん編だ。ホラー映画以上に立派にホラーしていて、しかも読みごたえがあるので数年ごとに読み返す。
内容を簡単に言うと、あるサイコパスがとある一家を洗脳して乗っ取り、自分の手を下さずその家族らに殺し合いをさせるというものだ。そんなことがあり得るのか?と思ってしまうが、事実あったことであり、なんなら漫画化したウシジマくんのストーリー以上に現実のこの事件の方が残酷で無慈悲な部分もある。
「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、まさにこの世にはどうしてこんなことが本当に起こったんだというような「恐ろしい」ことがまさに「恐ろしい」人間によって引き起こされている。
というのが、私がホラー映画にそこまでハマり切れない理由の一つである。フィクションよりも事実の方が衝撃的で、恐ろしいんだよな。
でも、こういうまるでフィクションのような事実があることを認識し、そしてそういう事例をきちんと「観察」して「知れ」ば、実際に身の回りで「恐ろしい」出来事や「恐ろしい」人間に出くわしたとき、上手く対処できるかもしれない。今自分の目の前で起こっていること以上に衝撃的な事実があることを知ることで、それと比較して自分の目の前で起こっていることに対して冷静になることができるかもしれない。そういう心持ちでいられるメンタルを「知る」ことによって培えるような気がして、自分はいろいろな事例を興味深く見ているんじゃないかと思っている。
私は塾の先生をやっていて、「なぜ勉強しないといけないのか」みたいなことを聞かれることがある。それに対する答えはきっといろいろあるだろうが、その答えの一つとして、「知る」こと(=勉強すること)は世の中の未知のことに上手く対処するための方法である、ということは間違いないと思っている。最近Twitterで「勉強するのは他人に騙されないためだ」というのを見たが、結局それもその話の一種だろう。
そんなわけで、シリアルキラーだのサイコパスだのそういう動画等を見てちょいちょいインターネットで話題にしていたら、メカZさんらに「そういうのに詳しいヤバい人」みたいな扱いをされるようになってしまった。別にヤバいことそれ自体が好きとかそういうわけではないんだが…(困惑)
実はもう一つ、非常に関心を寄せていて、それも「恐怖」の対象になるようなことで、深く「知る」ことでうまく対処できるようになろうと思っていることがあるのだが、あまり表立っていうようなことではないので今回の記事では触れるのを避けておくことにした。実際何度か現実に関わる機会があって、そのときはそれなりの対処ができたので、やはり「知る」ことはとても有益なことであると確信に至る経験となった。
まあ機会があればこの話も体験談を交えて記事にできたら。有料記事にするかもしれないけども。
以上が私の「恐怖」に関するお話である。
ちょうど5000字くらいでかけたので、この罰ゲームに関しては満足だ。
もうこんなクソ罰ゲーム二度とやりたくないけどな!!!
というわけで、第三回「書け」麻雀をお楽しみに。(今度こそメカZに感想文書かせてやる)
それでは、また会いましょう。