映画を観た記録5 2025年1月3日    エドワード・ヤン『エドワード・ヤンの恋愛時代』

Amazon Prime Videoでエドワード・ヤン『エドワード・ヤンの恋愛時代』を観る。

本作は、エンディングクレジットが流れるまで一切、音楽が流れないのである。単線的な物語が、目的へ向かうドラマ形式ではない。それゆえに劇伴のような音楽がない。スピルバーグやキャメロンらが作っている映画よりも先端的な映画である。

本作は、カタルシス、スペクタル、シミュレーションという映画が観客にもたらす効果がない。その意味で未来の映画である。未来の映画はハリウッドにあるのでもなく、VFXにあるのでもなく、台湾にあったのである。

無関係に見えるエピソードがまるでパズルにはめていくピースのように映画が組みたてられていく。そして、観客にカタルシスをもたらさないということは演出にも表れている。

ほとんどがワンシーン・ワンカットであり、「映画の感動」を作るようなモンタージュはない。カタルシス、スペクタル、シミュレーションがないのだ。本作の主題を論じることに意味はない。むしろ、その作られ方が論じられなければならない。

構造的に骨格ができあがっており、その骨格は一つ一つのパズルのピースのように独立している。原題は『獨立時代』だ。

Atomic production というのがエドワード・ヤンの製作会社のようだが、Atomic それは原子を意味する。映画のカット、シーンが原子のようにあるのだ。量子力学時代の映画である。

未来の映画である。

エドワード・ヤン『エドワード・ヤンの恋愛時代』はスピルバーグよりもキャメロンよりもタランティーノよりもレオス・カラックスよりも先の未来の映画である。

エドワード・ヤンの挑戦的な映画スタイルに比べると日本の黒沢清だとか、庵野だとか是枝だとか、子どものお遊びにしか見えない。

この映画は未来的すぎる。それは内容ではない。内容は現代の若者の恋愛や仕事を巡るあれこれが会話で怒鳴りあいながら、車で運転しながらロケーション撮影で会話していくということである。どこにも未来の要素は一切ない。

映画そのものが「未来からやってきたかのような作品」なのだ。

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