真実と偽りは相容れないものか
古代ギリシャの民話に『真実と偽り』というのがあります。
ある時、「真実」と「偽り」が道で出会いました。見ると「真実」は、ボロボロの服を着て、しばらく何も食べていないといいます。「近頃では、私なんかお呼びじゃないのさ。どこへ行っても無視されるか馬鹿にされるかだ。ほとほといやになってきたよ。われながら、どうしてこんな状況に黙って耐えているのかと思うよ。」すると「偽り」が「僕と一緒においで、そうしたら、どうすれば、うまくやれるか見せてあげるよ。・・・でも、一緒にいる間は、僕に逆らうようなことはひと言たりとも言わない、と約束しなければいけないよ。」と言いました。
あまりにもお腹がすいていた「真実」は、約束をして「偽り」と一緒に行くことにしました。町に着くと「偽り」は一番上等なレストランの一番いいテーブルに「真実」を案内しました。「ウェイター!この店の最上の肉と、最高の菓子と、極上のワインを持ってきてくれ!」と大声で言いました。二人は、これ以上食べられないほどお腹いっぱいになると、「偽り」は拳で激しくテーブルを叩くと、マネージャーを呼びつけ、口汚く罵りました。「一体この店はどうなっているんだ!1時間も前にウェイターに金貨を1枚渡したのに、まだ釣銭を持ってこないぞ!」マネージャーはウェイターを呼び問いただしましたが、ウェイターは、この紳士からびた一文もらっていないと言い張りました。「お前たちは人が苦労して稼いだ金をだまし取るのか!ほら、金だ!」といって金貨をマネージャーに投げつけました。
客が見ている中、マネージャーはレストランの評判に傷がつくのを恐れて、その金貨は受け取らず、払ったという最初の金貨のお釣りも持ってきたのです。それでもウェイターは否定しましたが、マネージャーは信用しませんでした。
ウェイターは嘆きました。「おお、真実よ、どこに隠れてしまったのだ。今や私たちのように一生懸命に働くものまでも見捨ててしまうのか。」
「真実」は、心の中でうめきました。「いいえ、私はここにいます。でも空腹にまけてしまったのです。」「偽り」との約束を守らなければ偽りとなるため、口を開くことができなかったのです。
店を出るやいなや、「偽り」は勝ち誇ったように「どうだい、世の中の仕組みがわかっただろう。」と言い、「真実」の背中をポンと叩きました。「真実」は、「偽り」から離れて「こんな生き方をするくらいなら、飢え死にしたほうがましだ!」と言いました。
そういう訳で、「真実」と「偽り」は、それぞれ別の道を歩むことになり、二度と一緒に旅をすることはありませんでした。
この「真実」と「偽り」を擬人化した古代ギリシャの民話では、何故か、親和性はないはずの「真実」と「偽り」に、付き合いがありました。しかも、「真実」を求めようとする人の数は少なく、落ち目な生活ぶりで、逆に「偽り」は羽振りがよいという世相でした。貧しさとひもじさの故に、「偽り」に従い、約束までした「真実」でしたが、あまりにひどい「偽り」の行状によって「真実」は覚醒し、本来あるべき「真実」の姿へと改心したのです。
「偽り」は、無銭飲食のみならず、支払ったと虚偽の申告をする二重の「詐欺罪」を犯しています。しかも、真実を主張するウェイターを大勢の客の面前で嘘つきだと罵り、名誉を棄損する罪をおかしています。
「真実」(誠)と「偽り」(嘘)というのは、本来、互いに相容れない所謂「二項対立」の概念であり、両者が決別するのは当然です。「嘘」は罪悪であり、「誠」をもって生きるべきであるというのが、人間のあるべき姿だということに誰も異論はないはずです。
しかし、世の中そう単純ではないかも知れません。それが証拠に、人間というのは、しばしば「嘘」「偽り」の中で生きているというのが現実ではないでしょうか。誠実な心は、人間の生き方の根幹に関わる道徳性の一つであるにもかかわらず、成長とともに何時しか、バレなければ嘘をついてもかまわないなどの欲得が生まれるのも紛れもない人間の姿です。
不誠実な行為には、戯言(ざれごと)や誇大広告、意図的に事実を隠したり、虚偽の情報を伝えたりすること、大事な約束を何の説明もなく破ること、重要な情報を故意に隠し、相手を不利にすること、秘密を漏らすなど信頼を裏切る行為、自分の過ちや失敗を認めず、他人に責任を押し付ける責任逃れ、金銭や物品を不正に得るために他人を欺く詐欺行為、公の場ではある態度を示し、裏では全く異なる行動を取る、いわゆる二枚舌などがります。化粧も美容整形も「真実」ではありませんが、社会的に許容されています。
「嘘も方便」や「嘘から出た誠」のように、「時と場合によって」、あるいは「結果オーライ」のように、「嘘」が許容される場合もあります。
「嘘も方便」というのは、真実を伝えることが必ずしも最善ではなく、嘘が良い結果をもたらすことが期待される場合に許されます。例えば、余命幾ばくもない末期がんの患者に、家族が病状を正しく伝えず、できるだけ前向きな気持ちで過ごせるように噓をつくことや、子どもの純粋な夢や想像力を大切にするために、幼い子どもにサンタクロースの存在を信じさせることは、赦されるはずです。ただし、それが正当化されるためには、動機が善意にもとづくものであり、あくまでも相手や社会にとって、より良い結果をもたらすであろうことが前提です。
「嘘から出た誠」というのは、偶然の結果というより、「嘘」で終わらせないようにその後の努力があった場合がほとんどで、表明したことによって、自分がそれに縛られた一種のパラドックスといえるでしょう。
人は自分を護り有利にするために嘘をつきます。これは、危険や不快な状況から逃れるための心理的な防衛反応です。大きくとらえれば、生存戦略なのです。ペナルティから逃れるなどの利害損得勘定からの嘘は、いずれ大きな損失を招くことを自覚しなければなりません。
「誠」を貫くことは時として厳しいものに違いありません。しかし、一度嘘にまみれると次々に嘘の上塗りをせざるを得ず、収束不可能な状況に陥る場合も覚悟しなければなりません。「嘘をついてしまったら二度嘘をつけ、三度嘘をつけ。しかし、いつも同じ嘘でなければならない。(オリエントのことわざ)」など、いつかしっぺ返しを食らうものです。嘘で取り繕ってその場を凌いでも、その責任と信頼性の喪失をよくよく考え、深く内省しなければならないのです。