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美食は罪か

 

▲フランス料理


 わたしたちは、たくさんの生命の犠牲の上に、自己の生命を成り立たせています。殺生は戒めなければならないことですが、人間に限らず、動物の多くは、生き物を食べずには生きられない宿命を負っています。飽食は罪であるばかりか、健康を害する場合がしばしばです。ましてや無用の殺生や大量の食品ロスなどあってはなりません。
 しかし、現実には、わが国の2022年度の食べられるのに捨てられた食品ロスの量は、推計で約523万tもありました。一方で、世界の食料援助量は、2022年で年間約480万トンで、日本の食品ロスの方が多いのです。しかも、アフガニスタン、シリア、コンゴ民主共和国、ロヒンギャ難民など食糧支援が届いていない人々が多数存在しています。世界の食糧生産は、100億人を養えるほどありますが、家畜などが食べるトウモロコシなどの飼料として、先進国が二重に消費してしまうため、多くの飢餓難民が発生しているのが現状です。生産は十分ですが、分配の不公平が世界の食糧問題の大きな課題です。
 
 紛争に伴う食糧危機はもちろん、飽食も罪に違いありませんが、果たして、美食は罪なのでしょうか。
 『バベットの晩餐会』という映画があります。1987年度のアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞した作品で、デンマークの作家カレン・ブリクセンの短編小説を原作としており、19世紀後半のデンマークの小さな村を舞台にした感動的な物語です。
 そこには、厳格なプロテスタントが暮らす貧しい漁村に育ったフィリパとマーティーネという二人の老姉妹が住んでいました。亡き父親が牧師だったこともあり、姉妹は禁欲的で清貧な信仰にもとづく生活を送っていました。食事も古いパンをビールで煮込んだものなど、質素極まりないものばかりでした。
 その村に、ある日バベットという名の一人のフランス人女性が船で流れ着きました。実は、彼女は1871年に起きたパリ・コミューンという革命で家族を失い、内戦の混乱から命からがら逃れてきた難民だったのですが、身元を明かさぬまま、姉妹の家の家政婦として無償で働きながら静かに暮らしていました。

 ある日、姉妹は、亡くなった父親の生誕100年を祝う晩餐会を開き、村人を招くことを思い立ちます。そこでバベットは、二人に、自分に晩餐会の料理を任せてほしいと告げます。実はバベットは、パリで名高い「カフェ・アングレ」というレストランのシェフだったのです。たまたま宝くじで大金を手に入れていたバベットは、そのお金を使って、姉妹や村人たちのために壮大なフランス料理の晩餐会を開くことを申し出ました。村人たちは贅沢なものに対して罪悪感や不安を感じつつも、バベットの申し出を受け入れます。
 ウミガメや鶉(うずら)といった食材が運び込まれ、ふだん質素な食生活を送っていた姉妹は、その数々の食材に衝撃を受け、晩餐会では料理を味わわないように誓い合うのでした。
 そして、晩餐会当日、招待された客たちは、初め、見たこともない得体の知れない料理を口に入れながら、憮然とした表情を見せ、中には憤る者さえいました。しかし、食事が進むにつれ、一人また一人と、顔の表情が緩みはじめ、やがては今までの人生で味わったことのない「美味しさ」に目を見張るのでした。晩餐会当日、村人たちはこれまで味わったことのない豪華で美味な料理を口にし、次第に心が開かれていきます。食事を通じて、彼らは自分たちの心の狭さや過去のわだかまりを超え、和解と喜びを見つけるのでした。
 
 この映画の背景には、プロテスタントの国・デンマークとカトリックの国・フランスの、食に対する宗教的なスタンスに大きな違いがあることを読み取らなくてはなりません。プロテスタントは、あらゆる肉体的快楽への耽溺は神への信仰に背くと考えられており、この二人の姉妹や村人のような清貧な暮らしを送ることが何よりも信仰の証となっていた人々にとっては、当然、美食は罪と考えられていたのです。 
 他方、カトリックにおいても、教義的には同様ですが、プロテスタントとの違いは、仮にこの種の罪を犯したとしても、教会に行き神父に懺悔し許されれば、罪がご破産になるという都合の良い教義があったのです。だから、いくら美味しいものを食べても、その度に教会で懺悔すれば美食の罪は免れたのです。
   14世紀イタリア・ルネサンス期のボッカッチョによる『デカメロン』は、ペストから逃れて田舎に避難した人々が、自然豊かな環境の中で、食事や娯楽を楽しむ描写が多く含まれています。ここに描かれた快楽主義的な食事は、贅沢さや生活の喜びを象徴し、社交や絆を深める重要な要素となっていたことがわかります。また、16世紀フランスのラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』では、食欲旺盛なガルガンチュアが、途方もない量の食事を楽しみ、豪快で過剰な美食のシーンが描かれます。17世紀スペインのセルバンテスの『ドン・キホーテ』でも、現実的な快楽主義者サンチョ・パンサが、食べ物や飲み物への強い欲求を満たす美食のシーンが描かれ、19世紀フランスのバルザックの『人間喜劇』シリーズにも、欲望の象徴としての食文化や美食が頻繁に登場します。さらに、20世紀初頭フランスのプルーストの大作『失われた時を求めて』は、有名なマドレーヌのエピソードなど、美食が時間や感情、自己の再発見に密接に関連して描かれています。
 これらは、いずれもカトリックの国々なのは、単なる偶然ではないでしょう。
 こうした二つの対照的な宗教的スタンスを食に対して何百年も繰り返してきたため、プロテスタントの国では、料理が極端に不味(まず)くなり、カトリックの国ではフランス語で「美食(グルマンディーズ)」といわれるように、大食いはもちろん、美食が追求されるようになったのです。
 今日では、カトリックとプロテスタントの国において、食の味覚に極端な差はなくなったものの、まだ、プロテスタントの国々の伝統料理には、「美食は罪」といった意識の残存が感じられるのです。
 世界の主な宗教は、美食について、いずれも過度な贅沢や無駄を戒め、感謝の心を持って食事を摂ることを求めています。
 あの清貧を友としたマハトマ・ガンディーは、「人は生きるために食べるべきで、味覚を楽しむために食べてはいけない」といい、ロシアの文豪トルストイは、「神は人々に食べ物をつかわしたが、 悪魔は料理人をつかわした」と述べていますが、あなたは、どう考えますか?

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