統一教会員の間違い⑦ 「天運相続」とは天運を貰える、という意味ではない
今、HJ天宙天寶修錬苑では、以前「祈願書(所願成就書)」と呼ばれていたものが「天運相続孝情奉献書」という名前に代わり「奇跡のような恩恵の証し」が起きている、と説明されています。では、「天運」を「相続」されれば無条件に問題が解決されるのでしょうか。それには「相続」とはどういう意味なのか、を考えてみなければいけない、と思うのです。
例えば、です。ある会社の社長が急逝し、その息子が会社を相続したとしましょう。その息子は「相続」しただけで会社の経営を上手に行う事ができるでしょうか。もしその息子が、この会社はどのような業種で、どういう仕事で収益を上げていて、経営はどうなっていて、社員はどのような仕事をしていて、という事を全く知らず、また、経営というもののノウハウを全く学んでいなければ、その会社は数か月もしないうちに倒産してしまうでしょう。
文鮮明先生は、「アラスカ精神」という言葉が好きで、よく話されていました。自叙伝で、その「アラスカ精神」を説明されています。
私は「アラスカ精神」という言葉を好んで使います。早朝に起きて海に出ていき、その日に釣るべき責任量を釣ることができなければ、その量を満たすところまで魚を釣ってから帰ってくるのが「アラスカ精神」です。そのように粘り強く忍耐することを学んでこそ、船乗りになることができます。
魚を釣ることは遊びではありません。海の中にいくら魚がたくさんいるとしても、ひとりでに釣れることはありません。専門的な知識と多くの経験が必要です。網を編むこともでき、錨綱を結ぶこともできなければなりません。そのように厳しい訓練を受けた人は、魚釣りだけが上手になるのではなく、世界のどこに行っても、新しい環境を克服し、他の人を導くリーダーとして成長します。魚釣りの訓練とはそのようなリーダーを育てることなのです。
文鮮明先生がアラスカにおられた時、よく教会の責任者がアラスカに呼ばれ、一緒に魚釣りをしてくる、という事がありました。その責任者が教会に帰ってくると「皆さんにも天運を相続しましょう!」といって、アラスカで買ってきたお土産を教会員に配っていました。
文鮮明先生は、そんなことを教会の責任者にして貰いたかったのでしょうか。文鮮明先生は「天運」を「相続」する為に訓練したはずなのに、彼らは何を学んで帰ってきたのでしょうか。魚がただ「釣れた」「釣れなかった」の話ではないはずです。もし、何も学んで帰って来なかったのだとしたら、家庭連合は潰れるしかないのは必定だ、と私は思います。
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