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聖書に登場する『中心人物』の考察① カインとアベルに神様は何を望んだか

最近の統一教会員のXの投稿を読むと「戦争だ」「闘いだ」とかのコメントを見かけることが多くなりました。「共産主義者が我々を倒そうとしている」と「戦って勝たなければいけない」みたいな内容が本当に多いのです。
さて、では神様は争ってどちらかが勝利することを、果たして望んでいるのでしょうか。文鮮明先生は常に「一体化」という話をされてこられました。人類始祖アダムとエバが堕落して、その子供であるカインとアベルに復帰の道を用意した神様でしたが、カインがアベルを殺すという最悪な結果となってしまいました。では神様はカインとアベルにどうなって欲しかった、と文鮮明先生はお話しされているでしょうか。


牧会者の道
第五章 牧会者と食口指導
第二節 主体・対象とカイン・アベル
より抜粋

アベルを中心にして見るとき、アベルもカインと同じ精誠で供え物をささげました。しかし、アベルはその出発点から神側であるため、神様は受けられたのです。ですから、アベルは神様が自分の供え物を受けられたとしてもただ「ありがとうございます」と言いながら温柔謙遜でなければなりませんでした。

そうしたならカインが殺そうとしますか?

しかしアベルは、神様が自分の供え物だけを受けられたので、カインの腸が煮えくり返るほど、度を越えて喜んだのです。

どんなにうれしくても一人で喜んで黙っていたなら良かったのに、兄に自慢したのです。皆さんもうれしいことがあれば自慢したいですか、したくないですか? 自慢したいでしょう? 同じようにアベルも兄にそれを自慢したのです。ところが自慢が度を越えて「お兄さんの供え物は受けないで私の供え物は受けた。だからお兄さんより私が、より勝っただろう!」、このようなことまで話したのでしょう。ですからカインの顔は真っ赤になったでしょうし、憤らずにはいられなかったのです。そのように考えることができるのです。

アベルは神様の恩恵を受けたからといって、うれしいと自慢をしてはならなかったのです。

恩恵を受けたならむしろ自分の不足を悟り

「お兄さん、すみません」

と言わなければなりませんでした。そうしたならカインが殴り殺しますか? 殺さないでしょう。

これがアベルの失敗です。

皆さんはアベルが好きですか、カインが好きですか? (アベルです)。私はカインも好きでなく、アベルも好きではありません。

どうしてでしょうか? アベルが、カインすなわち兄と共に供え物をささげた時、神様が自分の供え物だけ受けて兄の供え物を受けなかったとしても、兄に純粋に対さなければなりませんでした。兄のことを考えなければなりませんでした。そして

「ああ、お父さん、なぜ私の供え物だけ受けたのですか?」と言って泣きわめいて、兄のところに行って「私の供え物だけ受けた神様は嫌いです」

と言ったなら、神様はどうされたでしょうか? 間違いなくカインを愛さずにはいられなかったでしょう。


私は、この内容こそが私と私の周りにいる人達とどのような関係性とならなければいけないのかの、重要な内容だと理解しています。どちらかが勝ったとか負けたとか、福を受けたとか受けないとかで争うからこそ、戦争が無くならないし、人間関係の不和が無くならないのだろう、と思っています。
常に重要な事は「福を受けた者」の行動である、と文鮮明先生は言われています。果たして統一教会員は現在、どのような状況になっているでしょうか。福を受けたはずの統一教会員が「福がやってこない」と世の中に喧嘩を売っている、私にはそのように見えて仕方がありません。
なぜ、このような状況になってしまったのか。統一教会員は再度、自分の置かれた状況を見つめなおす必要がある、と私は思います。

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