統一教会員の間違い⑱ 自分は5%だけ頑張れば残りは神様がしてくれる、訳はない
どうも、統一教会員の多くが、自分は全体の5%だけを頑張れば、後は神様がやってくれる、というような勘違い行動、信仰が根付いてしまっているように思います。この5%の責任分担について、原理講論にはどのように書かれているのでしょうか。
第六章 予 定 論
第二節 み旨成就に対する予定
より抜粋
それでは、神はみ旨成就に対して、どの程度に予定されたのだろうか。既に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる九五パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき五パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。ここで、人間の責任分担五パーセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、一〇〇パーセントに該当するということを知らなければならない。これに対する例を挙げれば、アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善悪を知る果を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。ノアを中心とした復帰摂理も、ノアが箱舟をつくることに忠誠を尽くし、その責任分担を果たすことによってのみ、そのみ旨が完遂されるように予定されたのであった。また、イエスの救いの摂理も、堕落人間が彼をメシヤとして信奉し、責任分担を果たすことによって、初めて、そのみ旨が完成されるように予定されたのであった(ヨハネ三・16)。しかし、人間たちがこれらの小さな責任分担をも全うできなかったがゆえに神の復帰摂理は延長されたのである。
第三節 人間に対する予定
より抜粋
では、神は人間をどの程度にまで予定なさるのだろうか。ある人物を中心とした神の「み旨成就」においては、人間自身があくまでもその責任分担を果たさなければならないという、必須的な要件がついている。つまり、神がある人物を、ある使命者として予定されるに当たっても、その予定のための九五パーセントの神の責任分担に対して、五パーセントの人間の責任分担の遂行を合わせて、その人物を中心とした「み旨」が一〇〇パーセント完成する、というかたちで、初めてその中心人物となれるように予定されるのである。それゆえ、
その人物が自分の責任分担を全うしなければ、神が予定されたとおりの人物となることはできないのである。
例を挙げれば、神はモーセを召命なさるとき、彼が自分の責任分担を果たした場合にのみ、選民をカナンの福地まで導くことができる指導者となるように予定された(出エ三・10)。けれども、彼がカデシのメリバで磐石を二度打ったことによって神のみ意に逆らい、自分の責任を果たせなかったとき、その予定は達成されずに、目的地に向かっていく途中で死んでしまった(民数二〇・7~12、二〇・24、二七・14)。また、神がイスカリオテのユダを選ばれるときも、彼が忠誠を尽くすことによって、自身の責任分担を果たして、初めて、イエスの弟子になれるように予定されたのである。しかし、彼が自身の責任を全うできなかったとき、その予定は崩れ、彼はかえって、反逆者となってしまったのである。また、神がユダヤ人たちを立てられるときも、彼らがイエスを信奉して、任された責任分担を果たした場合にのみ、栄光の選民となれるように予定された。しかしながら、彼らがイエスを十字架につけたので、この予定は覆され、その民族は衰退してしまったのである。
原理講論の「自分の責任分担を全うする」とは、どういう意味でしょうか。この世には、責任分担を持っているのは「人間」しか存在しません。そして私達はその人間同士の「関係性」によって生きています。残念ながらアダムとエバの堕落も、その関係性で起こりました。カインによるアベルの殺害も、その関係性によって起こりました。ですから、地上で起こるすべての事象は、神様は関与できない、という事です。ですから、この原理講論に書かれている意味は「私は5%だけ頑張ればあとは神様がしてくれる」という意味ではなく、それぞれが自分のできる100%をしなければ、神が予定されたとおりの人物となることはできない、という意味なのです。
最初から他人の力を「神様が準備してくださる」と考えて行動する人に、誰が100%の力を貸してくれるでしょうか。まずは私が100%の力を出し切る、それも今の自分の100%ではなく「神様が本来予定された100%」を出し切れるように、日々努力することが、統一教会の信仰だと、私は思います。
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