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統一教会員の間違い② (万物条件問題)「条件物」は万物でもお金でもない

私が統一教会に繋がった時、神様に祈るときに1枚の用紙を渡されて「これを書いて祈りなさい」と言われました。その用紙には
1、目的
2、条件物
3、期間
と書かれていました。
私は本当に驚きました。自分の目的を果たす為に、自分で条件を決め、自分で期間を決めて神様に祈る?こんなデタラメな信仰を誰が教えたのだろう、と私は思ったのを昨日のことのように思い出します。
これの何が間違っているのか、統一教会員の多くが理解していないのではないか、と思うと、いまだにぞっとします。
ということで、まずこの用紙にも書かれている「条件物」とは何か、を説明したいと思います。
原理講論には以下のように書かれています。


緒論
(一)蕩減復帰原理
(2) メシヤのための基台
① 信仰基台
より抜粋

その第二は、そのための「条件物」を立てなければならないということである。アダムは「信仰基台」をつくるための条件として下さった神のみ言を信じなかったために、それを失ってしまった。このように、堕落した人間は、「信仰基台」を復帰するための神のみ言を、直接には受けられない位置にまで落ちてしまったので、そのみ言の代わりとなる条件物が必要となったのである。そして、堕落した人間は、万物よりも劣る立場におかれるようになったので(エレミヤ一七・9)、旧約以前の時代においては、供え物、あるいは、その供え物を代表する箱舟などの万物を条件物として立て、「信仰基台」をつくるようになったのである。それゆえに「信仰基台」は、人間の不信によってサタンの侵入を受けた万物を復帰する基台ともなるのである。そして、旧約時代においては律法のみ言、あるいはそれを代表する契約の箱、神殿、中心人物などが、この基台を造成するための条件物であった。また、新約時代においては福音のみ言、さらには、そのみ言の実体たるイエスが、「信仰基台」造成のための条件物であったのである。人間が堕落したのちにおけるこのような条件物は、人間の側から見れば、それは「信仰基台」を復帰するためのものであるが、神の側から見るときには、それはどこまでも所有を決定するためのものであったのである。

② 実体基台
堕落人間が創造目的を完成するためには、「信仰基台」を復帰した基台の上で、過去に人間始祖が成就し得なかった「完成実体」を成就しなければならない。しかし、堕落人間は、どこまでもメシヤを通して原罪を取り除かなければ「完成実体」となることはできない。ところで堕落人間は、上述した「信仰基台」を蕩減復帰した基台の上で、「実体基台」を立てることによって成就される「メシヤのための基台」があって、初めてその上でメシヤを迎えることができるのである。堕落人間は、このようにしてメシヤを迎えて原罪を取り除き、人間始祖の堕落以前の立場に復帰したのちに、神の心情を中心としてメシヤと一体となり、人間始祖が堕落したため歩み得ず取り残された成長期間を、全部全うして初めて「完成実体」となることができるのである。一方、「実体基台」を立てる場合においても、堕落人間が立てなければならないある蕩減条件が必要である。それがすなわち、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」である。人間始祖は堕落して原罪をもつようになるに従って、創造本性を完成することができず、堕落性本性をもつようになった。ゆえに、堕落人間がメシヤを迎えて、原罪を取り除き、創造本性を復帰するための「実体基台」を立てるためには、まずその「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てなければならないのである。この条件をどのようにして立てるかということに関しては、後編第一章第一節(二)において論ずることにする。

後編
第一章 復帰基台摂理時代
第一節 アダムの家庭を中心とする復帰摂理
(二)実体基台
アダムの家庭において「実体基台」がつくられるためには、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることにより、神がその献祭を喜んで受け得るような条件を立てるべきだったのである。では、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」は、どのようにして立てるべきであったろうか。人間始祖は、天使長によって堕落し、それから堕落性を継承するようになったので、堕落人間がその堕落性を脱ぐためには、蕩減復帰原理により、次に記録されているように、その堕落性本性をもつようになった経路と反対の経路をたどることによって、蕩減条件を立てなければならなかったのである。

一部省略

したがって、修道の生活は、ちょうどアベルにカインが順応しなければならないのと同様に、天のみ旨を指向する心の命令に体を順応させる生活であるともいえる。また人間は堕落して、万物よりも劣った(エレミヤ一七・9)立場にまで落ちたので、万物をアベルの立場に立てて、それを通してのみ神の前に出ることができたのであるが、これがすなわち献祭である。人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的に見るならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。また、謙遜と柔和が、キリスト教信仰の綱領となっているのは、日常生活の中で、自分も知らずにアベル型の人物に会って、彼を通じて天の前に立つことができる位置を確保するためである。個人から家庭、社会、民族、国家、世界に至るまで、そこには必ず、カインとアベルの二つの型の存在がある。それゆえに、このようなすべてのものを、創造本然の立場に復帰するためには、必ずカイン型の存在がアベル型の存在に従順に屈伏しなければならないのである。イエスは、全人類がその前に従順に屈伏しなければならないアベル的な存在として、この世に来られたお方である。したがって、彼によらなくては、天国に入る者がないのである。


引用の文章が長くなってしまい、申し訳ありません。しかしながら、ここは統一教会の信仰において最も重要な部分です。
文鮮明先生は「条件物」をどのように考えていたでしょうか。それは、とりもなおさず「アベル型」の人と「カイン型」の人が一つになる、という事が重要であり、それこそが「条件物」であった、と説明している、という事なのです。それをする為に旧約以前の人類は万物以下に落ちてしまったので「万物を献祭」として捧げる必要があった、と説明している訳で、万物そのものが条件物ではないという事です。
また、この内容はあくまで旧約以前の話であって、再臨主が現れた現代には全く当てはまりません。要するに「万物条件」などという教えは、文鮮明先生の教えには全く存在しない、という事です。私達は原理講論あるいはたくさんの「み言葉」を文先生から頂いています。文鮮明先生を再臨主と信じるならば、たくさんの「み言葉」を読み、文鮮明先生と一つになって「信仰基台」と「実体基台」を造成し、堕落性を脱ぐ為の条件を立て、自分自身あるいは家庭、また世の中を幸せにする運動をしていきましょう、と思う毎日です。


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