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み言葉の考察③ 「堕落性を脱ぐための蕩減条件」の『ための』を考察する

統一教会員の間違い② で『条件』の考え方の統一教会員の間違いを指摘させて頂きました。基本的な考えとして、人類は堕落してしまったので、堕落性を脱がなければ「完成もできない」という考えは統一教会員で一致していると思います。でも、ではどうしたら堕落性が脱げるのか、というところの考えが、どうも一致していないというか、具体的に「こうだ」というものがないことが、結果的に「条件」の考え方がおかしくなってしまった原因だろう、と私は考えています。この「堕落性を脱ぐための蕩減条件」という文章の意味を考察してみたいと思います。


緒 論
(一)蕩減復帰原理
(2) メシヤのための基台
② 実体基台
堕落人間が創造目的を完成するためには、「信仰基台」を復帰した基台の上で、過去に人間始祖が成就し得なかった「完成実体」を成就しなければならない。しかし、

堕落人間は、どこまでもメシヤを通して原罪を取り除かなければ「完成実体」となることはできない。


ところで堕落人間は、上述した「信仰基台」を蕩減復帰した基台の上で、「実体基台」を立てることによって成就される「メシヤのための基台」があって、初めてその上でメシヤを迎えることができるのである。堕落人間は、このようにしてメシヤを迎えて原罪を取り除き、人間始祖の堕落以前の立場に復帰したのちに、神の心情を中心としてメシヤと一体となり、人間始祖が堕落したため歩み得ず取り残された成長期間を、全部全うして初めて「完成実体」となることができるのである。一方、「実体基台」を立てる場合においても、堕落人間が立てなければならないある蕩減条件が必要である。それがすなわち、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」である。人間始祖は堕落して原罪をもつようになるに従って、創造本性を完成することができず、堕落性本性をもつようになった。ゆえに、堕落人間がメシヤを迎えて、原罪を取り除き、創造本性を復帰するための「実体基台」を立てるためには、まずその「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てなければならないのである。この条件をどのようにして立てるかということに関しては、後編第一章第一節(二)において論ずることにする。


さて、この文章を読むとき、なぜ「堕落性を脱ぐ条件」ではなく「堕落性を脱ぐ『ための』蕩減条件」と書かれているのか、というところに着目したいと思います。そのためには、後編第一章第一節(二)を読んでみなければいけない、と思います。


復帰基台摂理時代
第一章 復帰基台摂理時代
第一節 アダムの家庭を中心とする復帰摂理
(二)実体基台
アダムの家庭において「実体基台」がつくられるためには、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることにより、神がその献祭を喜んで受け得るような条件を立てるべきだったのである。では、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」は、どのようにして立てるべきであったろうか。人間始祖は、天使長によって堕落し、それから堕落性を継承するようになったので、堕落人間がその堕落性を脱ぐためには、蕩減復帰原理により、次に記録されているように、その堕落性本性をもつようになった経路と反対の経路をたどることによって、蕩減条件を立てなければならなかったのである。
天使長が、神の愛をより多く受けていたアダムを愛することができなかったことによって堕落したので、「神と同じ立場をとれない堕落性」が生じた。それゆえに、この

堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを愛して、神の立場にあるのと同じ立場をとるべきであった

のである。
第二に、天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったので、「自己の位置を離れる堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、

天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであった

のである。
第三に、天使長は自分を主管すべくつくられた人間、すなわちエバとアダムを逆に主管して堕落したので、「主管性を転倒する堕落性」が生じた。したがって、人間がこの堕落性を脱ぐためには、

天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであった

のである。
最後に、善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかるにこれとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、

天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであった

のである。
我々は、ここにおいて、カインとアベルの献祭に相通ずるいくつかの実例を挙げてみよう。我々の個体の場合を考えてみると、善を指向する心(ロマ七・22)はアベルの立場であり、罪の律法に仕える体(ロマ七・25)はカインの立場である。したがって、体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私たちの個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。したがって、修道の生活は、ちょうどアベルにカインが順応しなければならないのと同様に、天のみ旨を指向する心の命令に体を順応させる生活であるともいえる。また人間は堕落して、万物よりも劣った(エレミヤ一七・9)立場にまで落ちたので、万物をアベルの立場に立てて、それを通してのみ神の前に出ることができたのであるが、これがすなわち献祭である。人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的に見るならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。また、謙遜と柔和が、キリスト教信仰の綱領となっているのは、日常生活の中で、自分も知らずにアベル型の人物に会って、彼を通じて天の前に立つことができる位置を確保するためである。個人から家庭、社会、民族、国家、世界に至るまで、そこには必ず、カインとアベルの二つの型の存在がある。それゆえに、このようなすべてのものを、創造本然の立場に復帰するためには、必ずカイン型の存在がアベル型の存在に従順に屈伏しなければならないのである。イエスは、全人類がその前に従順に屈伏しなければならないアベル的な存在として、この世に来られたお方である。したがって、彼によらなくては、天国に入る者がないのである(ヨハネ一四・6)。
もし、アダムの家庭で、カインがアベルに従順に屈伏することによって「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てたならば、彼らは既につくられた「信仰基台」の上に「実体基台」を立て、この二つの基台によってつくられる「メシヤのための家庭的基台」の上でメシヤを迎え、創造本然の四位基台を復帰したはずであった。しかるに、カインがアベルを殺害することによって、天使長が人間を堕落せしめた堕落性本性を反復するようになり、アダムの家庭が立てるべきであった「実体基台」は立てられなかった。したがって、アダムの家庭を中心とする復帰摂理は成し遂げられなかったのである。


この文章を読むとき、なぜ「ための」という文字が含まれているのか、がわかるかと思います。つまり「堕落性」は、

「信仰基台」と「実体基台」を立て、この基台によって作られる「メシヤのための家庭的基台」の上でメシヤを迎え、創造本然の四位基台を復帰する

ことでしか脱げない、という事なのです。ですから、どんなにたくさん伝道しても、どんなにたくさん献金しても、それだけでは堕落性を脱ぐくことも完成することもできず、あくまでも「メシアのための家庭的基台」の上で「メシア」を迎え、

創造本然の四位基台を復帰する

ということが、最重要である、ということがわかると思います。


文鮮明先生自叙伝(平和を愛する世界人として) 
第五章 真の家庭が真の人間を完成するー結婚と愛
天国の礎は平和な家庭
西洋の人たちは、本当に孤独に生きています。子供たちは18歳になれば家を離れ、クリスマスの時などにちょっと顔を見せればそれで終わりです。両親を訪ねていって安否を気遣うこともあまりありません。結婚すれば完全に独立して暮らし、一人で生活できないくらい年を取ると療養所に行きます。そんな状況なので、西洋の老人は東洋の文化を羨ましく思っています。「東洋の人たちは、お祖父さんとお祖母さんを一家の長として敬い、一緒に暮らすので、本当に見ていていいですね。子供たちが年老いた両親を養い……。それでこそ人として生き甲斐があるというものです。療養所で横になって、子供の顔も見ることができずに、歳月が過ぎていくのも分からないまま生き長らえて、何をするというのですか」と嘆く老人が一人や二人ではありません。
ところが、西洋の老人がそれほど羨む東洋的な家庭観がだんだんと崩れていっています。いつからか始まった西洋ブームのために、数千年続いてきた私たちの伝統を自ら投げ捨てたのです。私たちの服を捨て、私たちの食べ物を捨て、私たちの家庭を捨てました。年末になると、隣人助け合い運動の放送番組では、毎年増えていく独り暮らしの老人の人数が発表されます。そのようなニュースを見るたびに、残念な気持ちを抑えることができません。家庭は家族が一緒に集まって暮らす所です。家庭がばらばらに別れて一人になってしまえば、それはすでに家族ではありません。大家族制度は韓国の美しい文化です。
私は、三代が一緒に暮らす家庭を勧めています。韓国の伝統を守るためだけではありません。夫婦が結婚して貴い子供を生めば、親は子供にすべての物を譲りますが、譲れるものには限界があります。父母は現在を、子供は未来を象徴します。祖父母は過去の歴史を代表します。したがって、祖父母と父母と子供が一緒に暮らしてこそ、子供は過去と現在の両方の運勢をすべて譲り受けることができるのです。祖父母を愛し、尊敬することは、過去の歴史を受け継いで、過去の世界を学ぶことです。子供は父母から現在を生きる貴い知恵を学び、父母は子供を愛して未来に備えるのです。
お祖父さんは神様の代身の立場です。いくら賢い青年でも、広い世の中の秘密をすべて知ることはできません。人が年を取って自然に悟るようになるあらゆる人生の秘密を、若い人はまだ知りません。お祖父さんが家庭の歴史になる理由がまさにここにあります。お祖父さんは、長きにわたって自ら体験して悟った知恵を、孫に伝達する貴い師です。
世の中で最も年を取ったお祖父さんはまさしく神様の立場です。ですから、お祖父さんの愛を受け、またお祖父さんのために生きる人生は、神の愛を悟って、神のために生きる人生ということができます。このような伝統を守ってこそ、神の国の秘密倉庫の扉を開けて、愛の宝を受け取ることができるのです。年を取った人を無視することは、その国の国民性を捨てることであり、民族の根を無視することと同じです。
秋になれば、栗の木はだんだんと水分がなくなり、葉が落ちます。栗の毬も殻が剥がれ、栗の実を包んだ内皮も乾いてしまいます。これがほかでもない生命の循環です。人もこれと同じで、赤ん坊として生まれ、父母の愛を受けて育ち、良い配偶者と出会って結婚します。これらすべてが愛によってなされる生命の輪です。そして年を取れば、乾いた栗の毬のようになっていきます。私たち全員が同じです。老人は他にいるのではなく、年を取れば私たち全員が老人になります。それを考えたら、いくらもうろくした老人だとしても、いい加減に接してはいけません。
「家和して万事成る」という言葉を覚えておくべきです。家庭が平和であれば、すべてのことがうまくいくという意味です。平和な家庭は天国の基礎であり、家庭の原動力は愛です。家庭を愛するように宇宙を愛すれば、どこへ行っても歓迎されるようになります。神様は、宇宙全体の父母として愛の真ん中にいらっしゃるのです。したがって、愛にあふれた家庭は、神様にまで一瀉千里で通じるようになります。家庭が愛によって完成してこそ宇宙が完成するのです。


私達祝福一世は、祝福二世の9割が祝福を受けていない、という事実を重く受け止めなければいけない、と私は思っています。世の中に迫害されて大変だ、と騒ぐ前に、自分の家庭をどのように完成するか、を真剣に考えなければいけないと私は思います。そのためには「為に生きる」こと。「真の愛」で生活することだと、私は思います。

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