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『僕は23期です。先生は14期』久保利英明×濱田邦夫

2021年6月対談 vol.1

久保利「今日は先生のお話をじっくりとお聞きしたいと思っています。長い付き合いになります」
濱田「そうですね。何年かね」

久保利「僕はたぶん弁護士になってすぐぐらいに、先生にお会いしてると思います。その頃僕は、第二東京弁護士会の全友会のメンバーでした。先生はその頃もうお偉くなっていて。で、大変な時期がありましたよね。全友会分裂という」
濱田「全友会というのは、司法研修所の卒業生から弁護士になった人たちの中の有志が」
久保利「の会派ですね」
濱田「集まって」

久保利「僕は23期です。先生14期」
濱田「そうですね、はい」

久保「だから9期違うんですけれども」
濱田「うん」

久保利「10年違う後輩という目で、先生のことをずっと見てきています」
濱田「私自身は、弁護士になった最初の数年間、国選の刑事事件とかです。小さな民事事件を、修行のためということでやりました。修習生の時の事務所が、あの渡部喜十郎(わたなべきじゅうろう)さんというですね」

久保利「ああ、100歳まで生きた」
濱田「102歳まで」
久保利「102歳」

濱田「生きられた大変な人物ですね。そこで一般の、典型的な訴訟中心の弁護士というものはですね、どういうことをやるのかと」
久保利「なるほど」
濱田「いう実地を、先生について、いろいろ見学をしまして。で、これは私のやる仕事じゃないなと(笑)」
久保利「(笑)なるほどね」

濱田「私自身は敗戦の時が9歳で、静岡市にいまして」
久保利「はい」
濱田「東大の法学部時代から歌をやっていました。(親が)アメリカの歌の本を買ってくれて、その英語の歌を小学生の頃からですね」
久保利「英語で歌ってた」
濱田「そうですね、英語でね」
久保利「ほぉぉ」

濱田「そういうこともあって、高校時代に外交官をね」
久保利「うんうん」
濱田「英語を使ってやろうかなと思ったんですが、色々事情がありまして止めたんです。これ止めてよかったと」
久保利「そうでしょう。どうせすぐ首になったし」
濱田「そうです」
久保利「(笑)」

濱田「(笑)とても宮仕えは務まらないし、この歳になるまで。もう84」
久保利「もうすぐですね」
濱田「今月24日で85になりますけど」
久保利「5ですよね」

濱田「弁護士になって、しかも、たまたま最高裁判所に行ったということでですね。いろんなところでお声がかかって。いまだに社外取締役というような形で仕事をさせて頂いてるのは、本当に幸せだったと思ってます」

久保利「先生を一言で言えば自由人ですよね」

久保利「責任を持った矜持を持った自由人というね、ここがやっぱり、ただの自由人とか放埓に生きているのとは全然自由の意味が違う。
先生は自分に責任を課した上で、やるべきことをこれをやる。言うべきことは先輩がいても、反対議論は「私は反対」というふうに言う。これ僕、弁護士になった頃から、いやぁいいなあと思いまして」

濱田「いやいや一言じゃなくて二言多いと言われることもあります(笑)」
久保利「三言(みこと)多いかもしれませんけど(笑)」
濱田「ま、その点は先生も同じだけどね(笑)」

久保利「(笑)似た者、なんかね」
濱田「そうですね(笑)」
久保利「先輩後輩みたいな感じで」
濱田「そうですね」

久保利「弁護士というのは、独立不羈なんてみんな言うけれども、最近はどうも不羈じゃなくて、誰かに媚びたり忖度したりして人生を過ごしている人も結構いるように思うんで、濱田先生見てると、いいんだこれで。と」
濱田「それは、仕事の種類を選択したということがあると思いますね」
久保利「なるほど」

濱田「弁護士を選択したということ自体が、弁護士というのはいろんな人を紛争で相手する。その頃、私が弁護士になった頃は大きな企業の訴訟というのは、ほとんどないわけですよね」
久保利「談合で終わっちゃうんだよね」


濱田「そう。談合で終わっちゃうの。そういうことですから、一般の訴訟というのは、私自身の育った環境と考え方にはなじまないところがあって、日本的な知縁やしがらみとかですね。義理人情とかですね。そういうことがない」
久保利「世界」


濱田「渉外法律事務所に入って10年ばかりはそこにいたわけです。その間にハーバード大学に」
久保利「留学されましたね」

濱田「留学して、1年アメリカのニューヨークで修行した時もありますけれどもね。弁護士会の中で、法廷に出ない弁護士は弁護士じゃない。という、そういうことを言う輩が」
久保利「そういう時代がありました」
濱田「いたんですよね」

久保利「法廷に行くために弁護士バッジってつけるもので」
濱田「渉外の分野というのは、その場で、言葉を中心にしてやり取りをして、それでビジネス上の問題を解決をして契約書を作ってというような形ですからね。日本的な伝統的な弁護士の仕事とは異世界だったわけです」
久保利「ああ」


濱田「ある意味じゃ私は逃げたんですよね」
久保利「逃げたというか、開拓者というか」
濱田「いやいや、物は言いようで(笑)」
久保利「(笑)」


濱田「伝統的な日本の弁護士で、訴訟を中心に、人権問題とかその他労働問題とか、非常に必要な分野がある。そこで頑張ってる仲間や後輩や先輩もね。たくさんいらっしゃいましたけれどもね。

私は日本の法廷には、若い頃ちょっと行っただけで、ほとんど行かなかったんですが、

最高裁から帰ってきて、外国特派員協会っていうところの会員になりましてね。そこの労働争議に絡みました。この事務所のいろんな方にも助けていただきました。


外国の場合でもアメリカでも、結局和解というのは非常に多いわけですけれども、その前哨戦として、論理の積み上げや言葉の闘争とかですね。そういうことがあるわけです。

日本の場合には、日本の政治でもですね。今の首相なり前の首相なりですね。歴代の首相で論理的な発言をしたという人は、ほとんどいないね」
久保利「少ないですよね。ほんとね、ほとんどいない」
濱田「少ないですね」


久保利「基本的には論理の積立と積み上げと眺望と」
濱田「それと説得力、バランスをとった説得力ですね」
久保利「エビデンスはどうなんだというのを組み合わせて、人を説得するというのはそういうもんですよね」
濱田「そうですね」

久保利「論理の整合性で勝負をしている弁護士が少ない中で、先生は渉外弁護士という国際弁護士という分野を選んだので」
濱田「フィールドが違うわけですよね。戦う武器が違うというかですね」
久保利「武器が違うね」


濱田「それで生き延びてですね。法廷に行かない弁護士がどういうわけだか、突如最高裁に行っちゃったというそれ自体がですね。これ自体が大変な」

久保利「どういうわけですか、あれは」

濱田「え、私もよくわかんないですけどね」

濱田「一つには時代的な背景があります。日本は社会を動かす原理、構造というかですね。それがいわゆる官僚中心で動きます。国際化というような問題の規制緩和も、大企業は関係庁省にいざとなればですね。まぁそこらへんでやめとけとかこうしろとかね。行政指導というものがあるわけです」

濱田「裁判所と関係ないところで、経済、社会経済が」
久保利「動いたんですね」
濱田「動いてた。そういうことですよね」
久保利「司法は関係なかったんですよね」

【濱田邦夫 PROFILE】
弁護士・元最高裁判所判事

1936年 生まれ
1960年 東京大学法学部卒業
1962年 弁護士登録
1966年 米国ハーバード大学ロー・スクール大学院修了
1975年 濱田松本法律事務所(現:森・濱田松本法律事務所)開設
1991~1992年 環太平洋法曹協会(IPBA)初代会長
2001~2006年 最高裁判所判事

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