『経営がうまくいかなくなった時に「やったるでぇ」というのが経営者なんです』久保利英明×内藤晴夫
久保利英明×内藤晴夫(エーザイ 株式会社 代表執行役CEO)
vol.2
久保利「社長は、歴代の創業家の創業者から三代目になるわけですよね。自分は経営者になると、高校生ぐらいからお考えだったんですか」
内藤「そう、高校生ぐらいからですかね。祖父が会社を創業者ですので」
久保利「そうですね」
内藤「祖父からはよく、お前は邪魔なんでいなくていいんだと。会社に入るなんてとんでもないみないなことずっと言われてましたけど。父親はかわいがってくれて、会社入れるつもりだったみたいですから、そんな感じでしたね。祖父とも、ずっと同じ建屋の中で暮らしてましたので、やっぱり経営者ってなんなのかっていうのは子供の頃から見てましたね」
久保利「ほお」
内藤「経営者っていうのは、経営がうまくいってる時にすごく喜ぶんですけれども、経営がうまくいかなかった時に、悲しまないですよね」
久保利「悲しまない、ほお」
内藤「悲しまない。逆にあのこれはチャンスだと」
久保利「やったるでえ」
内藤「やったるでえ。と思うのが経営者なんですね」
久保利「なるほど(笑)」
内藤「それはよく見てましたね。経営者に休日はない」
久保利「はいはい」
内藤「というのも明らかで、あのそういう経営者の日常生活とか考え方みたいなのは、ちょっとこう肌では感じてましたね」
久保利「ということは、おじいさんから学んだことがいっぱいあるっていうことなんですか」
内藤「そうですね。祖父からは随分学んだ気がしますね」
久保利「いちいち手を取って、あーだこーだじゃないかもしれないけれど」
内藤「ええ」
久保利「背中から」
内藤「そうそう。祖父はね、福井の泉徳治先生と同じ村の糸生村の、丹生郡糸生村の出身で」
久保利「へえ、最高裁判事の泉先生と」
内藤「ええ。泉先生が当社の社外取なんかやってくれたのは、創業者内藤豊次が同村の同郷の」
久保利「同郷だから」
内藤「先輩だったんですね。高等小学校途中で出奔しましてね。神戸の外国の商館のボーイを始めて、その時に下宿していた下宿屋の娘がおばあちゃんで」
久保利「(笑)」
内藤「それで日露戦争行って、ドンパチやろうと思ったら片目つぶれないっていうんで」
久保利「ああ。目をつぶれないんですよね」
内藤「ええ。で、衛生兵になったの」
久保利「ああ」
内藤「それで、そこで薬と出会ったらしい」
久保利「あらゆるチャンスをものにして」
内藤「高等小学校卒業だったんですが、私が物心ついた時には『TIME』とか『LIFE』とか、全部辞書なしで読んでました」
久保利「へえ」
内藤「ところが死んだ後ですね、整理してたら、こんなでかいボストンバックから何枚も単語帳が出てきたんです」
久保利「ほお」
内藤「単語帳って、昔」
久保利「ありました」
内藤「リーフに綴じて、表裏。あれにね、万年筆できれいに英語と日本語訳書いてあるのが、そうですね、大きなボストンバッグで5、6杯出てきましたね」
久保利「へえ」
内藤「やっぱりね」
久保利「勤勉だったんだねぇ(笑)」
内藤「見えないとこでね、勉強、努力したんですね」
久保利「なるほどね。独学なんですよね」
内藤「全部、独学だったんです」
久保利「へえ。ドイツ語もお出来になったと言ってましたよね」
内藤「ドイツ語もね、結構わかったんだと思いますね」
久保利「すごいですね。おじいちゃん亡くなったあと、その秘密の単語帳が出てきたんですね」
内藤「ええ、ええ。で、親父と祖父はものすごい仲悪くて」
久保利「悪いんだ、やっぱり(笑)」
内藤「もうね、しょっちゅうケンカしてました」
久保利「へえ」
内藤「経営をめぐってね。プライベートでは別にないんですけど、経営をめぐる意見の違いはすごくて」
久保利「エーザイの社長、三代目の社長におなりになって、製薬会社として、今、非常にこうグローバルにいろんな経営をしておられるし、世界三極思考ということで、ヨーロッパとアメリカと日本というのをうまくまわしながらやってらっしゃいますよね。グローバルってやっぱり絶対大事だと思います。そういう風にしなきゃダメだとか、経営をする上で、そういうふうにお考えになったのはどうしてですか」
内藤「そうですね、マーケットとして、そのアメリカとかアジアとか欧州を見るというよりは、そこにある知ですね、知とか人。それをちゃんとこう、エーザイの器の中に取り入れて、で、いろんなもの創造していかないと」
久保利「なるほど」
内藤「日本人だけで考えていたのでは、駄目やろう。という、そういう考えですね。ですから欧州も米国も最初に研究所作ってるんです。研究所でも、非常にアーリーなディスカバリーをやるような研究ユニットを」
久保利「ステージが若いところでつくって」
内藤「作ってるんですね。で、そこで現地の優秀な人を集めている。ですから、米国はボストン」
久保利「はい」
内藤「ボストンはハーバードを中心とする有力なアカデミアがある。で、欧州は、ロンドン。あそこも同じように非常に優秀なアカデミアがあるので、そこから人材をもらったり、あるいはコラボレーションしながら、知恵を創造する。United Kingdomは、やはり恐るべきね、大きな存在ですね」
久保利「なるほど」
内藤「そこと我々、いま」
久保利「いいですもんね」
内藤「親しくて。一度WHOの大きなカンファレンスに出ていた時に、UKの大使がスピーチした時に、British Company,such as GSK and Eisaiって言ったんですよ」
久保利「おお、すごいね」
内藤「とうとう、我々ついにブリティッシュカンパニーになったかと」
久保利「(笑)」
内藤「これは、あの、嬉しかったですね」
久保利「ああ」
内藤「彼らはエーザイのことを自国の会社」
久保利「そう思ってるんですね」
内藤「だと思ってくれてるっていう話を聞きましたね、これは嬉しかったですね」
久保利「それは、でも大事なことで」
内藤「ええ」
久保利「あの会社はうちの国の会社だよねと思ってくれることは、ものすごいありがたいことですよね」
内藤「ええ。英国では、University College LondonっていうUCLって言っている大きな総合大学と最初コラボレーションやってたんですよ」
久保利「ええ、ええ」
内藤「そこは明治維新の時に、長州薩摩の」
久保利「そうそうそう」
内藤「留学生を受け入れてるんですよ」
久保利「僕、行きましたよ。あそこの」
内藤「そうでしょう」
久保利「銅像があって」
内藤「そうそう」
久保利「碑になって」
内藤「五代友厚とか、井上馨とか」
久保利「ええ」
内藤「長州からの留学生と」
久保利「密航してるんですよね」
内藤「みんな命がけで密航してきてるんですよ。当時、長崎から英国行くのに半年かかってますから」
久保利「はああ」
内藤「スエズ運河通って。ヨーロッパの大学っていうのはキリスト教徒以外は受け付けなかったんです」
久保利「なるほど」
内藤「初めて仏教徒を受け入れたのが、University College Londonなんですよね」
久保利「違うよね。University Collegeというのは」
内藤「そうですね。University Collegeもすごい誇りを持っていて、ぜひ石碑をということで、あの石碑のわきにね、当時の副学長のJohn Whiteっていう人が詠んだ俳句が」
久保利「ああ、あった」
内藤「彫られた「はるばると こころつどいて はなさかる」
(『When distant minds come together, cherries blossom』)って書いたんですね」
久保利「すごいね」
内藤「なかなか良い句で。いろいろ苦労しながら、あそこに研究所を作ってやってきたんですけども。そういうわけで、UKの土壌にはね、我々しっかり入ったと思います」
内藤「ハーバードにね、岸義人っていう天才的な有機合成化学者がいて、日本の名古屋大学出身ですけども、彼はフグの毒を構造決定して全合成したとかね、天然物化学の世界の第一人者なんですけど、岸先生から「内藤さん、ここにね、研究所を作ったらいいよ、自分も支援するから」ということで、ボストンに研究所を作ったんですね。岸先生の研究所から最初4人、優れたchemistをもらって、研究スタートしたんですよ」
久保利「なるほど」
内藤「そこから、クロイソカイメンっていうね、三浦半島あたりにゴロゴロいるような海綿から、乳がんの薬を作ったんですよ」
久保利「へえ」
内藤「今もしっかりと世界で届けられてますけど、いつも同じものができるようにしなきゃ薬にならない」
久保利「ならない」
内藤「なのでそういう技術も全部、その日米合作で作り出してきた」
久保利「へえ。すごいですね」
久保利「おじいさんの遺伝子ですね、諦めない。とにかく失敗してもチャレンジするっていうね、発想と、それからやっぱりお父さんの遺伝子もあるんでしょうな。みんなでこう作っていくっていう、俺が俺がじゃなくて、いろんな国のいろんなchemistの力を使いながら、病気に苦しんでる人達の為に、いいものを作っていくっていう哲学が僕は、エーザイしっかりしている。と思うんですよね」
内藤「そうですね。なんとなく公のパブリックマインドみたいな、そういうものって感じてはいますね」
久保利「そうですよね。そうしていこうと思われたわけでしょう」
内藤「ええ」
久保利「わざわざ会社の定款にまで」
内藤「そうです、そうです」
久保利「<hhc(ヒューマン・ヘルスケア)>を入れるというのは、やっぱり、意図してそういう会社に作っていこうと思われたのかなあと、僕は思うんですけどね」
内藤「そうですね。あの頃は取締役会にも社外取締役に野中郁次郎さんとかね、そういう我が国の経営哲学者ですよね」
久保利「そうですね」
内藤「いわゆるphilosopher(哲学者)が入っていて、彼らがやはり理念を定款にもったらいいだろうということを言い始めて、株主総会にかけたわけですね。これ、特別決議ですから」
久保利「そうですよね」
内藤「そこには利益を求めないっていうようなことも、間接的に書いたわけですよ。患者さんのベネフィット向上が優先されると、それがうまくいけば結果として利益がもたらされるというふうに書いた。
ですから、目的は利益じゃないってことが、明確に定款にもってあるんですね。ですからひょっとして反対されるかなと思ったんですけど。全く、ほぼ満場一致で承認されましたですね」
久保利「ジョンソン・エンド・ジョンソンも結局は「我が信条」っていうか「Credo」で言っているのは」
内藤「ええ「Credo」」
久保利「「Credo」で言っているのは、結局そこですよね」
内藤「そうですね」
久保利「株主の利益は最後だっていう。これも露骨なこと言うなと思ったけれども(笑)誰が本当のユーザーかっていうことを考えたらそうなるんでしょうね。論理的にみても正しいと思う。
最近、弁護士でも、金儲けのために弁護士になるって奴がいるから「馬鹿者が」と思います。弁護士は、結果に金がついてこないことも多いんだけども、だけど根本は、人々の権利を守って、人間の尊厳をしっかり守ることなんだよねと。それをいの一番に考えないひとたちがいるからね」
内藤「そうですね」
内藤「理念をね掲げるのはまあいいとして、その理念を、やっぱり実践していかなきゃいけないわけですよ」
久保利「はい」
内藤「day-to-day operationで。そこんところがね、結構大変なんですよ。それがまさしく私は経営そのものだと思ってるんですけど、
当社だったら一万数千人の社員が、我々患者さんのために仕事しなきゃいけないっていうことを、day-to-dayの、その毎日の事業の中で、オペレーションを実現するにはどうしたらいいかっていうところがですね、
結構、技を加えなきゃいけないとこで、そこで知の創造活動っていうのを始めたんですね。それが何かって言うと、社員が持ち時間の1%を」
久保利「はい、ありましたね」
内藤「患者さんのとこで共に過ごしてくれと。いうふうにしたんですね。
そこで患者さんの喜怒哀楽を、言葉じゃなくて、いわゆる暗黙知で感じ取ってくださいと。その暗黙知や患者さんの憂慮を、どうやったらエーザイが解決できるかを考えようじゃないかっていう、これをhhc活動と称して30年以上やってきたんですね」
久保利「そうですね」
内藤「年間にそういうプロジェクトが世界で400個ぐらい、いつも走ってるっていう状況なので、それが草の根運動みたいにしてあるから、理念・実現が空回りしないということだと思います」
【内藤晴夫 PROFILE】
エーザイ株式会社 代表執行役CEO
1947年 生まれ
慶應義塾大学商学部卒業後、ノースウェスタン大学経営大学院でMBA取得
1975年 エーザイ入社
1983年 取締役
1985年 研究開発本部長
1988年 代表取締役社長
祖父は、創業者の内藤豊次氏。
父の第2代社長内藤祐次氏に続き、第3代社長に就任。
2014年 エーザイ取締役兼代表執行役CEO(現任)