自己紹介を兼ねて、今まで人生を振り返ってみます
noteはじめたばかりなので、まずは慣れるために
自己紹介を兼ねて、自分の人生を振り返ってみます。
小学校時代まで
1980/11/04に山形県で、4200グラムでうまれました。
とにかく外で友だちと、暗くなるまで野球をしたり、自転車で競争したり、ミニ四駆をしたりと活発に過ごしていました。
小学校のクラブ活動では、探検クラブに入り放課後はそこらじゅう探検していました。
雪が降ると、クロスカントリースキーで山に探検に出かけ、ジャンプ台を作りジャンプの真似事をしてスキー板をよく折りました。
中学校時代
野球部に所属して、野球ばっかりしていました。
足が少し早かったので、陸上部と掛け持ちしていました。種目は110mハードル。
朝練で陸上をして、午後からは野球をしていました。
高校時代
高校では、とにかく目立ちたがりな性格なので友達とバンドを組んで文化祭や
地域のイベントに参加していました。
生徒会では、応援団長に立候補してみんなを応援していました。
社会人になって
社会人になっていろんな仕事に就きました。
飽きっぽいわけではなく、なぜか運悪く、会社が傾いたり、実家に戻らなくてはならなくなったりでいろんな業種を経験しました。
中でも営業では、いろんな知らない場所でいろんな人と話すことが出来て貴重な時間でした。
製造職では、お金を作っているのと同じ機械で同じように作業できたり、会社が傾いたので最後は課長と自分の2人しか現場にいなかったりでなかなか楽しかったです。
林業では、国有林に入り大きな杉の木を1人で切り倒し、紙の原料としてや建築資材として生産していました。
自然相手の仕事なので、大変でしたが四季も肌で感じられてとてもやりがいのある仕事でした。
体に異変が現れる
そんな林業に精を出している時に、今まで病気らしい病気はしたことがなく健康には自信があったのですが、急に足に違和感がありました。
最初は痛みだったのですが、だんだん痺れに変わっていき、踏ん張ることが難しくなってしまいました。
林業なので毎日険しい山道を、重い荷物を持って現場まで行かなければいけなかったので、初めて病欠休みをもらって病院に行きました。
しかし、いろんな検査を受けても原因がわからずに病院を転々としました。
最終的に大学病院に二度長期入院して、やっと神経の難病だということがわかりました。
病名は多発性神経炎だそうです。左足の膝から下が、マヒして動きません。
松葉づえ無しでは、自力で歩けなくなりました。入院中は、いろんな治療も受けました。
ステロイドパルス療法(ステロイドを大量に投与して神経に刺激を与える)は、ステロイドを点滴で入れるのですが、入れた瞬間から体の中が火照り、全力で走った後のような感覚がずっと続き夜もほとんど眠れなくなりました。毎日睡眠薬を処方してもらい、飲んだ時は眠くなるのですが看護師さんが見回りに来る気配で起きてしまい結局はほとんど眠れませんでした。
肌もガサガサになり、私にとっては非常につらい治療でした。
その次の段階では、免疫抑制療法(ガンマグロブリン療法)を受けました。
この薬は、自分の免疫を抑制するので風邪など感染症にかかりやすくなるのでマスクを一日中着用しなければなりませんでした。
肌が荒れていたので、マスクの耳ひものところが切れて痛くてたまりませんでした。
それと並行して、リハビリも毎日行いました。足首などの間接が固まってしまうと大変なので理学療法士さんにストレッチしてもらい、電気刺激を受けてから必死でサイクリングマシンを漕いでいました。
まるで競輪選手になった気分でした。
でもそのおかげで、片方の杖だけで歩行することが出来るようになりました。
少し長くなってしまったので、続きはまた次の投稿にしたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございます。