なぜ事業をしたくなったか
今回は、なぜ社会的弱者支援事業を立ち上げようと思うようになったかをさかのぼって書いていきます。
最初の自己紹介の時に書いていますが、私は山形県の田舎町に生まれました。そして、父親の顔も名前も知りません。ずっと何も言われずに育ってきたので、それが当たり前だと小さい時は思っていました。周りから聞いた話では、父は働くのがあまり得意ではなく、金遣いも荒い人だったようで勝手にトラックを買ってきてみたり、家に帰らなかったりしていたそうです。さらに、酔って階段の上から赤ん坊だった私を放り投げたりしたそうです。そんなことがあり、母は離婚して実家に私を連れて戻りました。
そして、母の実家で曾祖父と祖父母と叔母二人でワイワイ暮らしていました。当時は人数もいたし、近所の人も毎日のように来るような家だったのでものすごくにぎやかでした。
そうして学生時代を過ごし、20歳の時に反対を押し切り私は結婚しました。反対されていたこともあり、地元を離れ埼玉県で生活を始めました。
埼玉県では、新聞の販売員をしていました。朝、夕の配達に加え、日中は営業や集金とほとんど家に帰れず休みなく働いていました。ほどなく、長女が生まれ3人で楽しく、忙しいながらも暮らしていました。
そんな生活もつかの間、実家から連絡があり私の祖父が口腔がんで入院していて永くはないかもしれないということでした。そして、会社に休みをもらい3人で山形の病院へ向かいました。
祖父はとにかく病院が嫌いで、とことんまで我慢する人でした。医師が診察した時にはもう、転移してしまっていて手術も出来ない状態でした。それでも、少しだけ娘を抱かせることが出来たので良かったです。そして実家には男手がいなくなってしまったので、私たち3人はそのまま実家に戻ることを決めました。
実家に戻る
その後実家に戻り、次女も生まれ家族が増えて幸せに暮らしていました。そんなある日、埼玉の警察から電話があり身元確認をしてもらいたいを言われました。若い時から音信不通になっていた親戚のことのようでした。警察によれば、埼玉の路上で倒れており救急車で運ばれたが、身元が不明で調べた結果こちらの関係者ではないかということでした。
その親戚の家は、年老いた母が一人で暮らしているため埼玉まで一人で行かせられないので私が連れていくことになりました。
そして、埼玉県の草加市の病院に身元確認に行きました。すると、間違いなく本人でしたが、くも膜下出血で倒れたそうでまったく反応がない状態でした。しかも、身元は確認できても現在どこに住んでいるのか、家族はいるのかなどがわからず途方に暮れていました。何も所持品もなかったし、保険証もなかったので全額負担になるようでした。このまま埼玉の病院に入院させていても通えないので、手術をして容体が安定してから山形の病院へ転院してもらいました。その後、奇跡的に意識が回復し会話ができるようになりました。
このことがきっかけで、ある日突然障害者になるとこんなにも大変なんだとわかりました。そして世の中にはいろんな事情を抱えて生活している人がたくさんいるんだろうなと思いました。
その後は今度は、近所の親戚のおばあさんが行方不明になり、たまたまゴールデンウイーク初日で家にいたのですぐさま捜索へ行きました。
しかし、なかなか見つからず翌朝消防団へ依頼して捜索隊を結成して頂いて探しました。結局3日間捜索して、川の中で亡くなった状態で発見されました。警察の方が調べた結果、自殺であろうという見解でした。長年1人暮らしだったのでなにかつまらない事があったのかなと思います。すぐ近くに住んでいても気付く事ができないもどかしさを感じました。
奥さんの実家が火事に
その後、今度は私の奥さんの実家が火事になりました。そして運悪く、奥さんのおじいさんが逃げ遅れ亡くなりました。
それ以来、奥さんは実家の面倒にかかりきりになりました。私も出来る限り手伝いをして、新しく家を建てるまでは仕方がない事だと思いながら娘たちと暮らしていました。しかし、そこからいろいろと問題が出始めました。
まずは、娘たちの保育園の費用が支払われていなかったことです。私は恥ずかしながら自分は働いて給料をもらい、やりくりは全て奥さんに任せていました。自分の口座を見たこともありませんでした。
そして、奥さんが実家にかかりきりな為、私が娘たちの迎えに仕事終わりに行くと園長先生が出てきて、未払いが溜まっているので何とか払って欲しいと言われました。何と1年もの間支払われていなかったのでした。電話や郵便で督促していたようですが、全て奥さんが対応していたようでした。
愕然としました。
すぐに問い詰めたところ、実家に仕送りをしていたということでした。それどころか悪徳業者に騙され仕事を斡旋するからと、高額な資料などを契約もしていました。これではもうだめだと思い、離婚を私の方から持ち掛けました。
多額の借金を背負わせて、追い出すわけにはいかないので全て清算してから離婚に向けて話し合おうとしました。しかし、離婚には同意しても親権の話では折り合いがつかず義理の父は怒鳴り散らしとても落ち着いて話し合いが出来る状態ではなかったので、家庭裁判所に調停を申請しました。
本当にエネルギーを消耗しました。
その時には3人目も生まれたばかりでしたので、上の二人は保育所があるので私と生活をして、3人目はまだ赤ちゃんなので奥さんの方で生活をしながら何度も裁判所に出向き話し合いを重ねました。結局そのまま上の二人を私がまだ赤ちゃんの3人目を奥さんが親権を持つということで決まり、離婚が成立しました。
やはり一人親で育てるのは、大変でしたが幸い私の母親が元気なので何とか今まで育ててこれました。
それからしばらくして、今度は隣の家の親戚のおばあさんが自宅の車庫で首を吊りました。毎日のように私の家に来て、祖母と2人で話をしていたのに突然そうなるとは夢にもおもいませんでした。その後の残された家族たちの様子を近くで見ていてとてもいたたまれない気持ちでした。
このような経験の上に、今度は自分も神経の病気にかかり障害者になり不自由な生活をしていると本当に、普段は見せなくても心の中ではいろんなことを悩み苦しんでいる人がいっぱいいるんだなと思います。
私は決して特別ではないと思います。私よりも過酷な生活をしている方がたくさんいます。ですから、少しでもそういった方々の支えになることが出来ないかと考えるようになりました。
まだまだ計画段階なので、実現までにはもう少し時間はかかりますがなんとしてもやり遂げたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございます。
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