MRのカルテ (No.9)
医療ライターの三浦秀一郎です。MRのいいお話を連載します。お読み頂ければ、光栄です。(尚、本文はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません)
〇 新薬採用で百万の通行税 (カルテNo.9)
都内のある医療機関の話である。
「えっー、いつからそうなの。知らなかったな。しかし、そんな金は無いぞ。それがなかったら入らないという事か―」
担当MRから、その話を聞くなり、エリアマネージャーは軽いショックを受けて表情を暗くした。マネージャーにしてみると、月度二百万の実績が新規獲得できるか否かは、その寄付金が準備できるかにかかっているということになる。しかし、寄付金予算は全て行き先が確定していて、これからの変更は逆立ちしても湧き出てはこない。マネージャーははたと困った。
医薬品企業が取引の相手に対して「寄付」を行うとき、不当な景品類の提供とならないように公正競争規約の中に「基準」を定めている。その中で「寄付」とは、取引に関係なく無償で金品を提供することをいい、取引誘引の手段として行われる景品類の提供とは結びつかないものとされている。
そして、具体的に拠出が制限される例を次のように挙げている。
1 費用の肩代わりとなる寄付金
2 通常の医療業務に対する寄付金
3 寄付者側の利益が約束される寄付金
4 社会通念を超えて過大となる寄付金
5 割当て・強制となる寄付金
マネージャーは、この項目を今回のケースにあてはめて考えてみた。医薬品の採用条件であることから、3は該当するだろう。5の強制にも引っかかってくるかもわからない。いずれにしても、公正競争規約違反に該当することは確実である。有名な医療機関でありながら、なんというレベルの低い倫理感なのだ。マネージャーは、考えれば考えるほど怒りが込上げてきた。同時にこんな事をいつまでも続けていると、いつかつまらない事件を起こし、新聞沙汰になって、こっぴどく痛めつけられるのではないかという予感もあった。更に心のどこかに、願掛けをするような気持ちが働いた。でないとこの腐敗しきった医療機関は、浄化されない気がしたのだ。
暫くするとマネージャーの予感は、発射された矢が的の真ん中を貫くように見事的中した。その事件は、平成○○年六月、医学部の入学斡旋をめぐる疑惑で始まった。国税当局は、同医療機関が受験生の親から合格発表前に集めた七年間で約百億円の内、関連財団に流れた数十億円を入学斡旋料の所得隠しと認定して、重加算税を含めた約二十億円の追徴課税を行ったのである。
関連財団の経理は、本体の事務局が管理を受け持っており、組織的に事前寄付金を集めていた実態が明らかとなった。そして、東京国税局は医療機関の実務者を所得税法違反(脱税)容疑で告発したのである。
この医療機関の事件は、これだけに止まらず、各方面に波紋を広げることになった。なんと厚労省の関係者が、この医療機関への「口利き」行為をしていたことが明らかになったのである。すぐに当時の首相は、関係者を更迭することを決めた。その後、この医療機関へは立ち入り調査が行われ、全貌の解明が指示され、最高責任者の辞任を促したのである。さらに、日本○○○○振興・○○事業団は過去五年間に交付した補助金の内、加算金を含めた約五十億円の返還命令を出したのである。これは過去最高額であった。
しかし現在もこの医療機関は、前最高責任者の二男が理事長を務めていて、一族支配の構図は変わっていない。
一連の事件の影響から、担当者とマネージャーが採用を目指していた新製品は、暫くは無理となった。院内のごたごたが解消しなければ、薬事審議会の開催予定もない。担当者とマネージャーは、諦めモードに入った。
半月ほど過ぎたある日、会議中にマネージャーは、担当MRから緊急の連絡を受けた。早速、電話口に出ると担当者は、上擦った声を上げながら「ぎりぎりのところで止めました―」と連呼し「やばかったです。申し訳ありませんでした」と今度は侘びを入れてきた。
マネージャーは、頭の中にある、あらゆる情報をかき集めて担当者の置かれている周囲の状況と、起こりうる危機的できごとのシミュレーションを行ってみた。頭の中で起こったほんの短時間の思考である。
しかし、担当者からの報告の予測は出来なかった。彼の報告によると、定期訪問中、医療機関の医局長と面談した際に、薬審情報を入手したというのである。その中で、自社トップ製剤の切替が議題に上っていたというのだ。
担当者は、慌てて各方面の手配を行った。阻止行動に出たのである。その結果、取あえず自社の採用取消を防いだという。
この医療機関の自社のトップ製剤は、月度二百万で、ちょうど新製品とほぼ同額の実績であった。もし、今回の事件が起こっていなければ、競合の動きを掴んでいない担当者のトップ製剤は、採用取消し処分を受けていたと思われる。
「知らぬが仏……」と「不幸中の幸い……」いう言葉がある。マネージャーは、この言葉をぱっと閃いて頭に浮かべた。今回の出来事は正に「知らぬが仏……」と「不幸中の幸い……」のミックス事件である。
マネージャーは、電話口の担当者に向って、軽い口調で激励の言葉を伝えた。
「ルールを守ったMR活動をしようぜ。そうすれば幸せは絶対にやって来るよ。焦る事はないよ……」
すると、電話口から「はい」という弱々しい疲れ果てた言葉が返ってきた。