MRのいいお話

MRのカルテ (No.16)

医療ライターの三浦秀一郎です。MRのいいお話を連載します。お読み頂ければ、光栄です。(尚、本文はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません)


〇 日当の家  (カルテNo.16)

「課長、どうですか、このベランダから見える仙台平野は、素晴らしいでしょう。週末、天気のいい日には、何時間でもこうして市内を眺めています。この景色をどうしても、両親に見せたかったんですが……」

 ここは中山の豪邸が立ち並ぶ高台の住宅地である。斜面を切り開いて造成されたその住宅地の一軒一軒から、オーシャンビューのごとく、見事な仙台平野ビューが広がっているのだ。しかし、素晴らしい眺望に反して森田MRの横顔からははっきりは見えなかったが、涙声から察するに、透明の滴が落ちているように思えた。

 年末、課の忘年会が開催された。そこでちょっとしたトラブルが起こったのだ。酒の勢いをかりた係長が森田に食って掛かった。

「てめえ―、日当ばかりで飯、食いあがって、恥ずかしくねーのかよ―。皆との付き合いは悪いし、何を考えてんだよ―」

 さらに、酒の勢いは止まらなかった。そして、究極の言葉が出てしまった。

「営業課あがりで、高卒でよ、よくMRがやっていけるな―。もっとみんなと一緒に遊んでもいいんじゃねーのかよー……」

 森田の右手のこぶしが固く握られ、震えているのが見えた。咄嗟に課長は二人の間に止めに入った。係長の不満は、課員、皆が感じていることではあったが、宴会の席では、限界を超えている。もし暴力沙汰にでもなれば後始末がたいへんである。

「おおー、幹事よ、係長にもっとゆっくりと飲ませてやってくれ―。ストレスがあるようだ。宜しく頼むよ……」

 と言って、課長は二人を引き離した。そして、森田MRをローカに連れ出し「よう―、我慢したな。立派だぞー」と褒め称えた。

「課長、今度一度、中山の我が家においで頂けませんか。ぜひ、お願いします……」

「分かった、ぜひ、伺おう。今日は係長にあまり近づくな―。虫の居所が悪いらしい。しかし、珍しいな係長。あんな姿を見るのは初めてだ……」

 といって、森田MRの自宅訪問を約束したのであった。

 医薬品企業のMR職には、『日当』が支払われている。『営業手当』という課税対象手当とは異なり、非課税の営業日当がそれである。営業手当は、営業労務の対価として受給側に経済的利益が発生し、給与所得と同様で課税対象の扱いとなる。つまり賃金となるのである。一方、日当は出張しなければ発生しなかったであろう雑費や少額経費で、領収書対象の実費処理をすることの煩雑さを回避するために定額とし、本質は実費支弁で受給側に経済的に利益をもたらすものではないという考え方である。具体的には、食事代、その他の雑費的な費用に限られ、各企業を調査すると3,000円~4,000円というところである。

 自社は、追加して時間の要素を取り入れて5時間以上の請求とし、8時間以上は4,500円という設定になっている。

 これとは別に旅費交通費の中の宿泊費は、一般的に支給エリアを設定しながら上限値を決め、精算時、領収書の添付を求めている企業が多いようである。この点、自社は実費支給の多い企業とは異なり、上限値の金額をそのまま請求ができ、安い宿を探してやりくりをすれば、多額の差額が生まれる構造となっている。

「こんにちは、森田さん、お休みの日にご免なさいね……」

 と言って、インターホンのカメラに向かって訪問の挨拶をすると、早速、玄関ドアが開き、森田夫婦と小学生低学年の可愛い女の子二人が出迎えてくれた。忘年会の日、約束した森田宅訪問の実行である。

 応接間でお茶をご馳走になったが、話の前に見せたいものがあるというのだ。そして二階に案内された。その部屋にはなぜか立派な仏壇があり、位牌は仙台平野を眺めている。

 森田の話は長かったが、彼の優しさと一徹さが入り混じった、悲しいものであった。

 森田は貧困な家庭に育ち、大学まで進むことは経済的に無理であったという。自宅は林の中の平屋で、日光も射さないボロ家であったというのだ。そして、今の会社に就職したある日、家族は久々に仙台城跡の『伊達政宗像』を見に行こうということになったらしい。その日はちょうど雲一つない快晴で、空気も澄みきった日であり、市内全貌が見渡せる展望台からの眺めは、全てを忘れさせるぐらいの迫力があったという。その時、父親がぼそっとつぶやいた。

「ごめんよ―。青空の見えない家で……」

 そこで森田は今の両親の環境を何とか変えたいと考えた。誰にも相談せず、必死に人生の設計図を描き始めたのである。そして、一つの方針を決めたという。MR職である。もともと、営業課の倉庫が担当で、学歴も工業高校を卒業した高卒であった。彼にとってMR試験は非常に高い壁である。また、半年ほどのトレーニング記録を残し受験資格が与えられることから、業務との調整もうまく進める必要がある。いくつもの難関が待ち受けていたのである。

 しかし、彼はその難関を次々とクリアし、見事一発でMR認定を勝ち取った。そしてその話になると、彼の涙はもう止まらなくなっていた。子供たちは自分の部屋に入ったようだが、隣に奥さんがいる。声は出さないが、化粧崩れはしないかと心配するぐらいポタポタと落ちるものが見える。辛い過去を思い出すのであろう。

 彼がMRになって15年になる。もう立派な中堅である。成績も計画を毎回達成し、優秀MRの一員として毎回、表彰されている。

「そして、漸く貯めたお金で、仙台平野が一望できるこの家を建てました。家内の協力があってのものです……」

 といって、彼は奥さんの肩に右手を置いた。奥さんはもう聞いていられないというような反応で下を向いたままである。彼は、さらに話を続けた。

「この家が完成する、半年前、親父が脳出血であっという間に亡くなりました。会社には、申し訳なかったのですが、密葬にしたいとお話をしました。皆に迷惑をかけたくなかった為です。さらに追い打ちをかける様にその三ヶ月後に今度は母親が心筋梗塞で他界しました。この時も同様の対応をさせて頂きました。家内の心労は如何ほどだったか、心配で心配でたまりませんでした……」

「課長、僕はこの15年間、仙台城の親父のつぶやきから人生がスタートしたと思っています。でも、こんなことってあるのでしょうか。係長に罵られてもいいんです。大したことではありません。私は両親を恨みました。ちゃんと家を建てたじゃないか。ベランダから仙台平野をあんなに見たいといっておきながら、なにも死ぬことはないだろうと……」

 長い沈黙が続いた。課長は、全てを理解した。

 彼のMR活動とその精算には、経理と打ち合わせをしながら細かく注意を払っていた。また、領収書、各帳票類は5年間さかのぼってすべてを調査するように指示を出していた。不正請求の事実は全く見当たらない。それどころか実に正確に記載され、精算の見本と思われるような内容でもあったのである。管理職としてもその能力は高い評価に値すると思われた。

「課長、今日から少しずつ態度を変えていきたいと思います。家内と話し合って決めました。長い間、皆さんにご迷惑をかけたし、申し訳ございませんでした。今日、そのことを聞いてもらおうと思ってました。本当にありがとうございます……」

 と言って二人は、頭をさげた。

 あれから、五年が経過した。今度の人事異動で、彼はある県の営業所長になるはずである。