MRのいいお話

MRのカルテ (No.15)

医療ライターの三浦秀一郎です。MRのいいお話を連載します。お読み頂ければ、光栄です。(尚、本文はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません)


〇 インセンティブ五百万円の話  (カルテNo.15)

「おめでとう、本当におめでとう。いっぱい売ってくれて、感謝します―」

 と私は、特販部長の立場から複雑なものを感じながらも、斉藤MRを褒め称えた。ここは、キックオフ会場となっている都内の高級ホテル2階の大広間である。いま、社長挨拶の後、前年度の成績が発表され、続いて優秀エリア、優秀MRのアワードが始まったところである。皆の顔は光り輝いている。それもそのはず、今日の為に一年間、あらゆる苦難を乗り越えて頑張ってきた強者ぞろいの連中である……。

 特販部は「局所止血剤 T 」の売上推進を目的とした特別販売部隊である。設立はTが新薬として上市してから二年目のことであった。

 私は、知り合いのエージェントから突然呼び出しを受け、二つ返事でプロジェクトに参画したのである。所謂、ヘッドハンティングに遭遇したのである。ヘッドハンティングのターゲットは都内に住む専門職で、業界の知識とマーケティング・ストラテジーを立案・推販が出来る者という条件であったらしい。後日、そのリストを見ることができた。その中には、多くの知り合いの名前もあった。本当に狭い世界である。

 このお話は、一本の電話から始まった。

「HIDEちゃん、今週の金曜日、夕方、家に来てくれないか。8時頃がいいかな。それまでには帰ってると思うけど。なんかあったらまた電話するよ……」

 と低い太めの声で、本社・特販部の私に電話が入った。相手は都内にある医療法人の副院長Kからである。ちょうど先週、斉藤MRを紹介する目的と転職の挨拶もかねて、訪問した後の電話であった。

「はて、呼び出しとは、何かな……」といろいろな思いを巡らし、ドジな振る舞いはなかったか、失礼はなかったかと改めて、振り返ってみたが、心当たりのものは見つからない。

 私は、落ち着かない数日間を過ごした。しかし、まだその意図が分からない。過去にKからは数回、自宅に遅い時刻、呼び出されたことはあった。その時のテーマは全て前向きな相談事であり、私にもプラスのものが多かった。Kはもともと『策士』であり、好んでいろいろな事をたくらんでは楽しむタイプのドクターである。そのことを知ってから極力巻き込まれないように気をつけてはいるが、いつしかどっぷりとはまり込んでしまい、気がつくと鎮座している自分がいた。不愉快ではないのだが、そういう運命なのだろうと半ば諦めている。

 特販部隊には、数字を上げる以外のミッションは存在しない。ディーラーに対する割戻金対策、豊富なツール、強烈なインセンティブ等、数字さえ上げれば何でもありの部隊である。特にインセンティブは結成当初から、新規5ml、1セットに@10,000を支払うと明言をしていた。ちょうど薬価からの比率は10%に当たる。輸入原価から計算しても何ら問題にはならない範囲である。私は最初から、これは最高のインセンティブ条件であると皆を洗脳した。そこまでたどり着くには、事業部長、経理、その他企画部門を相手に、相当な苦労があった。

 ドクターKの相談は、次のものだった。

「『局所止血剤 T』を採用してあげるよ。しかし、それにはリスクを背負ったドラマが必要だ。どうだい、やってみるかい……」

「先生、そういうお話でしたら、実は、後日、改めて先生にご相談にお伺いする予定でおりました。まだ斉藤MRも院内の情報をつかまえておりませんし、ストラテジーを組み立ててから、ご相談に伺いたいと考えておりました。お心遣い、本当に感謝を申し上げます」

 と私は応接間でひたすら頭を下げ続けた。ドクターKからの相談というより、こちらからの相談ごとであった内容である。これには、正直、驚いてしまった。以前から、ドクターKはこのような『策士』であることは熟知していたのだが、久々の場面に遭遇したことから、ただ、ただ唖然としてしまったのである。

 さらに、この『策士』はあまり細かいことは言わない。「後は、流れを考えて俺についてこい―」という態度である。

「話は、それだけだ。もう帰っていいよ……」

 というと自分はさっさと玄関に向かって行った。まるで、邪魔だから早く帰ってくれとでも言っているようである。すると、玄関でドクターKが言った。

「J715 B3、あれはいいね。ほしいクラブだね……。今度また、誘うよ。久々、教えてもらおうかな。じゃ、ご苦労さん―」

 面談時間は、およそ30分、最後の『おまけ』が気になるところではあるが、過去に経験した時間とほぼ同じである。私は、駅までの帰り道、様々な展開を想像した。そこでは斉藤MRがパイプ役として機能しなければならない。彼は、のほほんとしているが鍛えがいのあるMRである。しかし、実際にドクターKに耐えられるかは別問題である。

 ドクターKの病院をあらゆる角度から分析し、市場調査の結果、マーケティング・ストラテジーを決めてゆくと脳外科と心臓血管外科を中心とした、製品のポテンシャルは非常に高いことが分かってきた。また、都内でも高いシェアをもっている医療機関であることも分かった。更に一社独占であることも分かった。300万/月度の実績とデータが示している。これは、大変なことである。早急に新規採用を目指して、対策をスタートさせなければならない。

 三ヶ月が過ぎたある日、ドクターKから呼出しがあった。斉藤MRはこの短期間にもうすっかりドクターKと打ち解けあっていた。大した能力の持ち主である。

 私は、彼に一つのキーワードを授けていた。それは『シュークリーム』である。それもカスタードクリームではなく、「ホイップクリーム」を入れた『シュークリーム』である。ドクターKはこの『ホイップクリームのシュークリーム』に全く目がないのである。それは異常なほどで、ナースも含めて皆で食べることが大好きであった。なぜ分かったかというと偶然、医局のラボとの何気ない会話から発見したのである。そして、私はすぐに実験にとりかかった。しかし、ホイップクリームのシュークリームを売っている洋菓子店の数は少ない。そこで医療法人とドクターKの自宅の路線で手当たり次第に調べることにした。何とも不思議な業務で、違和感はあったが、その当時は「藁にも縋る」気持ちで探し回ったのである。

 斉藤MRは「国内旅行業務取扱管理者」の資格を持っていた。国土交通省が認定する国家資格である。彼は、本当に変わったMRである。採用時、なにかしら人を引き付けるものは感じた。斉藤MRはこの資格を利用してドクターKの家族サービスに入り込んでいた。大いにこき使われていたのである。この短期間に打ち解けあった理由がそこにあった。

 シュークリームを持参しながら、予定時刻に面談に入った。

「いよいよだよ―。資料関係は斉藤君からもらっている。それをもとに申請は完了した。今、採用されている局所止血剤は心臓外科から採用されたものなんだ。しかし、使用量の6割は私が使っている。そこで、ちょっと了解を頂けないだろうか。今から、そのメーカーの担当者に電話を入れるから、ここで一緒に聞いていてくれ。こそこそやるのは、俺の流儀じゃないんで、付き合ってくれないか……」

 また、弱い心臓が止まりそうな具合になってきた。ドクターKが『策士』とは割り切っていても、次から次へとこのドクターは暴れん坊将軍なみである。そして、今、採用されているメーカーに直接電話を入れ、MRを呼びつけた。

「おーー、初めて電話をするが、御社の局所止血剤を一番使っているのは私だが、お前は一回も俺のところに来ないじゃないか。製品情報も全くくれない。お前は何を考えているのだ。脳外科から競合品を申請する。宜しく頼む―」

 と言ってドクターKは電話をガチャリと切った。私と斉藤は、暫く、硬直したまま、楽しそうにあのシュークリームを食べているドクターKを見つめた。目を逸らすことが出来ない。恐怖感と尊敬と不安とがごちゃごちゃに入り混じって、何とも表現が出来ない状況であった。

「ということで、宜しく頼む―。心臓外科とは薬審の前に話をつけておくから心配しなくてもいいよ。但し、採用になったら、挨拶ぐらいは行きなさい。シュークリームはありがとう。もう、持って来なくてもいいよ……」

 私と斉藤は、腑抜け状態で面談室を出て、駐車場に向かった。

 薬事審議会は、大きな波乱もなく定刻で終了し、結局、従来品とともに二製品の採用でいくということに決着したとのことである。

 翌週の夕方、私はドクターKの自宅をアポなしで訪ねた。ドクターKの奥様に挨拶をし『J715 B3』を届けた。そして、それにはメモと名刺を入れることを忘れなかった。

『ご注文のお品です。お貸しいたします。存分にお楽しみ下さい。ありがとうございました……』

 斉藤MRにはこのことは一言も言っていない。そして、採用から一年が経ち、ドクターKが所属する医療法人の実績は全国のトップとなった。5mlが500セットを超えたのである。

 インセンティブは今も生きている。私はこころの底から彼の頑張りを祝福することにした。