MRのカルテ (No.3)
医療ライターの三浦秀一郎です。MRのいいお話を連載します。お読み頂ければ、光栄です。(尚、本文はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません)
〇 ハラハラ、ドキドキの結婚式 (カルテNo.3)
「HIDEちゃん、ちょっと頼みたいことがあるのだが、相談にのってくれるかい……」
と産婦人科医師のN氏から突然の電話で、呼び出しを受けた。私は「畏まりました。すぐに伺わせて頂きます」と冷静なふりをして早速、A県立病院の産婦人科医局にリース車を飛ばした。そして、この一本の電話は、我々を嵐の中に引きずり込むきっかけとなっていくのである。
依頼の内容は、部下である産婦人科医が今度、市内のホテルで結婚式を挙げることになったのだが、以前から付き合っていた女性に「結婚式を壊してやる―」と脅されていて、それをなんとか阻止してくれないか、というお願いであった。
当時、私は、A県立病院担当のMRで組織している「A市MR研究会」の事務局を担当していた。N氏はそのことを知っていたのだ。しかし、過去に遡ってみても、事務局にこんな「お願い事」の事例はない。どういう対応をとればいいのか、とんと見当もつかない。
「先生、どうしたらよいのでしょうか。教えて頂けないでしょうか……」
と逆に尋ねた。するとN氏はあっさりと言ってきた。 「ホテルの入り口で、入ってこないよう阻止してくれればいいのだよ―」
入ってこないようにと言われても、体を張るのはいいのだが、暴力に訴えるわけにもいかないし、はたと困り果てた。相談は受けたが、結論の出ないまま、私は「A市MR研究会」の委員の皆に相談を持ちかけた。案の定、ここでも様々な意見が出たが結論は出なかった。
「我々を何だと思っているんだ。暴力団じゃないぞ―」とか「あの先生のためだったら、何だってやってあげようや……」と過激な意見まで飛び出した。式まではまだ少し日数がある。取あえず案を出して、修正をかければよい。
私は、皆の意見を取りまとめて、再度、幹部連中に報告を行った。そして、結論を求めたのである。皆は、出来る限りの協力を行うということで方針を決定した。そして、この旨を、産婦人科医のN氏に伝えたのである。
N氏は、大いに喜んでくれた。すると「何人、人を出してもらえるのか―」と聞いてきた。私は「どういう意味ですか……」と聞き返した。何とその脅しの相手は、三人だというである。私は唖然として、「はぁー、先生、一人じゃないんですか―」と声を張り上げた。
危ないのが三人いるというのだ。ただただ呆れて、開いた口が塞がらない。我々は改めてN氏を交えて、市内の小料理屋で作戦会議を開くことにした。しかし、具体策に入る前に、どうしても納得のいかない重要部分を問いただす必要があった。
N氏は、部下の女性関係を、我々MRに教えることに難色を示した。しかし、もうそんな事はいっていられないのではないかと皆は詰め寄った。疑問に思った点とは、なぜ結婚式まで、三人もの女性と仲のよい関係を続けていたのかということと、結婚することが分かっていれば、それなりに、早目の何らかの手立てがあったのではないかということである。
N氏は我々の質問に答え難そうに、直前まで、分からなかったという。「脅しの文書」が届いて、初めて相談を受けたというのである。要は、ただの女癖の悪い産婦人科医ではないか。
さらに、驚きの事実が出てきた。その結婚相手というのは、教授の娘だというのだ。何たることか。ふざけている。三人の女性と関係をもちながら、今度は将来を嘱望された新郎の立場になったというのか……。皆は、心の中で「この医者には天罰がくだる―」と考えた。しかし、その医者に皆が巻き込まれて、今、N氏の依頼でガードに回ろうとしているのである。
皆はだんだん、腹が立ってきた。一方では、世話役の先輩であるN氏に同情し、可愛そうにも思えてきたのである。
結婚式会場のホテルの入り口は、正面と裏側、それに地下駐車場の三箇所であった。我々は、二人一組で行動することにした。正面入り口は、少し距離をおきながら、三組を配置し、裏側と地下駐車場は、二組ずつの配置を考えた。そして、予備軍として二名をホテル内に待機させることにした。総勢十六名である。また、各入り口にはドクター一名を配置してもらうようにお願いをした。理由は、あくまでも我々は補助であり、そのドクターに相手の説得をお願いしたいからだ。これでほぼ完璧な作戦が纏まった。
また、当日、その危ない三名の写真を一組に一セットずつ、手配することも忘れなかった。準備万端、いよいよ当日がやってきた。
全員に写真が配られた。なんとどれも美人のナースばかりである。十六名全員が、怒りを感じながらも羨望のまなざしで写真を脳裏に焼き付けた。
その日はちょうど、日曜日で大安吉日の快晴の日であった。運動会にぶつかったメンバーも多い。家庭サービスは台無しである。
我々は、式と披露宴の時間の前後を十分な余裕をもって警護に当たった。流石に皆は緊張した。何が起こるか分からないからだ。少しでも予想できる事であれば、心の準備というものがあるが、それが全くない。こんな経験は初めてである。時間が過ぎてゆく。会場は披露宴が始まったらしい。何事もなく、また時間だけが過ぎてゆく。
だいぶ緊張が解けてきた。もう、披露宴は終わりに近い。何も起こらないという確信が出てきた。しかし、最後までしっかり警護に当たろうと、皆は考えた。
産婦人科医のN氏から連絡が入った。無事、全てが終了したとのことである。そして、慰労と感謝の言葉も付け加えられた。皆はほっとため息をついた。慣れない長時間の緊張から、開放されたのである。何もなかったという安堵感とプラスして、今日一日、何をしていたのだろうかという空しさだけが残った。
その十六名は、産婦人科医、N氏とある密約を交わしていた。それは、私が窓口となって、無事ことがうまく運んだ時に成立する密約である。もともとこの件のスタートは、私が責任者となり、皆に話を持ち掛けたことにあった。貴重な一日を「重要なお願い」の為とはいえ、何らかの交換条件として、報酬を考えることは当然であろう。内容の調整は、研究会の幹部連中で行った。そして私は、交渉内容をN氏にぶつけたのである。
N氏は、笑いながら承諾してくれた。「しょうがねぇーな……」の一言で成立したのである。
密約の内容とは「ことがうまく運んだ場合、ある比率で参加十六社の製剤を半年間、優先的に処方する」ということである。私は、幹部連中と製剤の種類と目標額を均一に調整した。あくまでも通常使用の上乗せ分でなければならない。そうでなければ、見返りとならないのである。
皆へ終了の連絡があった同じ頃、N氏から、直接、密約成立の連絡が入った。ウイン-ウインの関係が成立したのである。そのことを皆に伝えると、一転して、満足げな表情となった。家路の足取りは軽いはずである。
二日後、産婦人科医のN氏から、再び呼び出しがあった。私はいそいそと出かけて行った。しかし、そこにはとんでもない裏話が待ち受けていたのである。ドアをノックしてN氏の部屋に入った。
「おー、HIDEちゃん、今回はいろいろ協力してくれてありがとう。感謝するよ。皆さんにも宜しく言ってくれないか……」
と、N氏は感謝と慰労の言葉を言いながら、にこやかに、入れたてのコーヒーをご馳走してくれた。私はなぜかその時、背中がぞくっぞくっとした。
「HIDEちゃん、あの結婚式の後、いろいろなことがあってね。それでちょっと聞いて欲しくて呼んだんだよ―。悪いね……」
とN氏は本題に入った。あの日、式は何事もなく順調に進んでいった。そして、披露宴に移った。途中で友人からのメッセージと花束贈呈が企画されていた。その時、ハプニングが起こったというのだ。
ある花束に「新郎の先生、ご結婚おめでとう。この子の分まで幸せになってね。N子……」というメッセージと子供の写真が入っていたというのだ。祝電は、関係者がチェックをしていたが、花束はノーチェックであった。ホテル側も、お祝いの花束ということで処理し、ましてメッセージまでは確認しない。そこに落とし穴があった。
新郎は青ざめた。逆に新婦はフォローに回った。そして、その場は司会者の機転が利いた対応で、ジョークとして聞き流されたそうである。N氏はさらに続けた。
「実は昨日、新婦の父親でもある、産婦人科の教授に呼ばれてね。それで大学まで行って来たんだよ―。そこでショッキングな話を聞かされてね。なんか複雑な思いで帰ってきたよ―。それは、教授室に入るなり『御免よ。よく披露宴をリードしてくれたね。ありがとう……』というのだよ。私は、教授から謝られるような事に心当たりがなくてね。疑問に思って『何かあったのでしょうか―』と聞き返したのだよ。すると教授は『ああ、大事なことを話さなくちゃいけないね……』というんだな。そして、教授の話しを聞いて、流石の私も興奮してきてね。まさか教授に怒りをぶつける訳にもいかないしねー、この事をぜひ君にだけは分けてあげたくなってね―。そうでもしなければ、私のストレスは半減しないと思うんだよ。HIDEちゃん、悪いねー、受取ってくれるかい……」
とN氏は、美味しそうに、熱いコーヒーを啜りながら私の顔を覗き込んだ。
教授はある時、娘が付き合っている相手が選りに選って自分の医局員であることを知った。当然、そのドクターの女癖についても耳に入っていた。そして、娘が結婚したいと言ってきたとき、教授は動揺し、悩んだ。新郎となるドクターは、確かに美形で優秀な医局員である。しかし、こういった場合の対応には、父親として、全く無力の教授であった。
そこで教授は、娘の幸せを考え、ある施策を実行した。教授は、A県立病院の総婦長に一連の相談を行ったのである。総婦長は、研修医時代に世話になったナースで、今は全てのナースを取り仕切る『総婦長』の立場にあった。
「私に任せなさい。少し手荒な対応になるけど、娘さんの為に一肌脱ぐわよ。私の裸を見たらびっくりすると思うけど…ほっほっほっ-」
と言って戦略は立案され、極秘裏に実行に移されたのである。娘の父親である教授は、N氏の行動を含め、全ての動きを把握していた。我々の行動も随時、リークされていたというのだ。そして、当日の結婚式となった。
「HIDEちゃん、美味しいコーヒーだろう。最高の味だね。それで総婦長は、新郎が以前から付き合っていた三人のナースに接触した。三人とも、総婦長の右腕とされる病棟婦長が育てた優秀なナースであったらしい。三人は涙ながらに納得したそうなんだ。しかし、ストーリーはそれで終わらなかった。お灸を据えることになったらしい。ホテルは事前の情報のとおり、皆さんのガードがきつい。それで花束作戦を考えたそうなんだ―」
私は、N氏の話で、全てのストーリーを理解した。もう言葉が出ないぐらいの脱力感に襲われた。そして、N氏の部屋から出ることが出来なくなっていた。
N氏の入れてくれた熱いコーヒーには、多目の砂糖とたっぷりのミルクが入っていたが、苦い味だけが舌に絡み付いて、そのまま暫く口の中に残っていた。そして私は部屋を出て、重い足を引きずりながら、病院の駐車場へと向かったのであった。