MRのカルテ (No.6)
医療ライターの三浦秀一郎です。MRのいいお話を連載します。お読み頂ければ、光栄です。(尚、本文はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません)
〇 営業本部長を三時間説教した副院長 (カルテNo.6)
「何で普通の使い方をしてるのに査定されるんだ。けしからん。しかし、あんたの会社は、担当者に調べろと言ってもさっぱり動いてくれないじゃないか。どうなってるんだ。ふざけんじゃないぞ―」
と中国地方にある、H整形外科病院の副院長は頭から湯気を立てて怒鳴り散らす。場所は、H市内にある有名な料亭の一室。会食の席には営業本部長、支店長、それに担当者がいる。
営業本部長は、畳に前髪が着くぐらい、ひたすら頭を下げ続けた。
「担当者には責任ありません。私の責任です。申し訳ございません。先生のご指示を頂いて、調査を継続しておりますが、なかなか真相が分かりません。力のない点をお詫び申し上げます-」
すると副院長は、「ほう、本部長、あなたの指導が悪いのか。じゃ、どう責任をとってくれるのかな?」
「先生、少しお時間を頂けないでしょうか。適切に判断し、後ほどご返事を申し上げます。それまで何とか……」
「ほぉー、じゃ、それまで楽しみに待ってみましょうか-」
漸く機嫌の悪い一山を越えた。そして、料理に箸を付け始めた。営業本部長は、徳利を両手で持ち、副院長の杯に注意深く地酒を注ぐ。ほんのりと甘い香りのする、少し辛口の吟醸酒である。接待の席でなければ、とことんこの風味と少し辛口の上品さを存分に味わいたい地酒である。
営業本部長が呼び出しを受けたのは、師走に入ってすぐのことであった。広島支店長からの要請である。
「H整形外科病院の副院長が『営業本部長を連れてこい』といって息巻いており、急ぎで随行をお願いできないでしょうか-」
というのである。早速、いままでの経緯を聞く。H整形外科病院のレセプト請求が、ここ三ヶ月間、続けざまに査定され、何とかしてくれないかという要望が出されていた。現場はいろいろと情報を集めて検討したが、原因がつかめない。そうこうしている間に時間が経つ。結局、副院長は、回答を持ってこないことに怒り出したというのである。査定されたその製剤の県内の状況をみると、特に注目すべき点はない。H整形外科病院のみが突出して査定率が高いのだ。
営業本部長は、これは何か裏の事情がからんでいる可能性があると睨んだ。それにしても、いくら顧客最優先といえ、この程度の問題であれば、現場で対処してほしいものである。営業レベルの低さにひとり頭を抱えてしまった。しかし、まあここまで拗れると本部対応もやむを得ないことではあるのだが。支店長はしきりに申し訳ないという言葉を繰り返した。
取引卸の情報では、過去にも大手医薬品メーカーで同様の事例があったという。いずれにしても、このようなことは医薬品企業であれば、多かれ少なかれ起こり得る事だと本部長は開き直った。
「先生、ところでレセプトの査定内容なのですが、その辺を少し教えて頂けないでしょうか。社保、国保の査定比率と、実際の査定区分はどんな内容でしょうか。A・B・C・Dでいえば、Bの過剰あたりでしょうか……」
と切り出した。普通、ドクターは、事務方から査定されたレセプトの再申請手続きを要請される。以外にも額の小さいものはこの査定区分を気にしていない。
「ああー。明日事務に言って、この三ヶ月間を纏めさせるよ。明後日来てくれ。しかし、担当者はそんなことも質問しなかったぞ。君らは何をしてるんだ。本部長が言った内容が分かったかい-」
営業本部長の発言が、かえって藪蛇になってしまった。現場の報告には、その辺の重要ポイントが欠落していたのは事実である。さらに、副院長自身もその辺の把握が出来ていないことが判明した。怒るに値しない気がした。
社内には、某大手企業のような支払基金専門担当者がいない。その対応として、営業本部長は、十分な教育を行ったつもりでいた。そこでそのほころびが出た。これには参った。そして、今度は担当MRに矛先が向けられた。
「君は、ただ使ってくれ、使ってくればかりで、基金情報とか、他の情報提供が何にもないじゃないか。MR失格だぞ。そんなMRはいらん。辞めてしまえ-」
また、会食の場に突風が吹いて、皆が凍りついた。一時間前の振り出しに戻ってしまったのだ。それから延々と担当MRに説教が続いた。
本部長と支店長は、ただ見ていた訳ではない。タイミングをはかり、一所懸命に担当者の擁護にまわるのだが、副院長のパワーは想像を絶するもがあった。どこにこれだけのパワーが潜んでいたのか、お化けである。
少し間が空いたとき、本部長はある提案を示した。それは、ドクター自身ができる対策の一つである。
「先生、先生のご立腹の理由は十分に理解しております。それで一つお願いなんですが、今度、社保・国保が合同主催するドクター向けの勉強会があります。それに、ぜひ出席して頂けないでしょうか。そこで基金の整形外科メンバーを調べて頂けないでしょうか。先生のお話ですと、ここ三ヶ月間の査定が多いということですよね。審査員は五月で入れ替わっております。その辺も考慮に入れて、調べて頂けないでしょうか。ぜひご協力をお願い致します……」
と対策案を伝授した。副院長は、熱燗を注文した。そして、湯呑みになみなみと酒を注ぎ、目をぎらつかせながら「それは面白い―」とひとり言をもらした。その目は、あたかもテレビドラマに出てくる殺人犯を追っかける刑事のようであった。
会食は三時間になろうとしている。副院長もだいぶ日本酒が効いてきたようだ。頃合を見はからって、本部長は合図を送った。副院長も同意した。自宅までの送迎をかって出たが、副院長は一人で帰りたいと中型ハイヤーに乗り込んでしまった。
こういう時は気配りが必要である。一人で乗車させるのが礼儀である。どうせまっすぐ家に帰るはずはない。
営業本部長は握手を求めた。副院長の右手は暖かく、柔らかで、まるで暖めたシリコンに似ていた。その手がこの地域で「魔法の右手-」と呼ばれている名医の手であることを確認した。
それから一ヶ月ほど経ったある日、広島支店長から、例の査定理由が分かったとの報告が入った。理由は、五月から審査員の中に、副院長と激論を交わしたドクターが入り、適正使用普及の目的から、集中的な査定を始めたというのだ。同じ情報は、副院長にも入っていた。
営業本部長は、支店長に、もう一度アポイントを入れるように指示をした。すると、副院長から「原因が分かったので面談の必要性はないよ―」と返事が届いた。
本部長は、あの地獄のような三時間の会食の意義を考えた。いくら医療機関という優越的な立場にあるとはいえ、副院長自身が種を蒔いておきながら、それを営業の現場に責任転嫁したことは許せない。これを聞いた関係者であれば、憤りをおぼえるだろう。あの副院長の言葉は、これから育つ若いMRの芽を摘み取ってしまう可能性もある。
会食の翌週の月曜日、H整形外科病院担当のMRが、広島支店長に退職届を提出した。すぐに営業本部長に連絡が入った。支店長は理由を確認し、取あえず一時預かりとした。副院長の言動は、担当MRに相当のショックを与えたのである。
彼は、あの病院を二度と訪問したくないと言ってきた。思い出すと胃がキリキリ痛み出すというのだ。条件反射的な拒否反応であろう。支店長は彼に休養を指示した。査定理由が判明して暫くすると、あの副院長から、営業本部長宛に電話が入った。
「本部長か、この間はご馳走さんでした。ありがとう。あの原因が分かったよ。いろいろ迷惑をかけたね。そして、彼には少し言い過ぎたようだね。御免よ―」
と言って電話は切れた。別人のような、優しさの溢れた、二重人格と思える電話の声であった。
アポイントを入れてからだいぶ時間が経ってからの出来事である。一言詫びを入れたかったようである。
H整形外科病院担当MRの退職届は、支店長の一時預かりとなっていたが、彼は二度と職場に復帰することはなかった。そして残念ながら三ヶ月後に退職をした。彼は、あの会食の日から体調を崩して、しまいには、精神障害を起こしたという。
ドクターは患者を救うのが仕事である。あの会食の三時間の説教は、逆に患者をつくることになってしまった。
このことは、今も副院長には知らされていない。