MRのカルテ (No.1)
医療ライターの三浦秀一郎です。MRのいいお話を連載します。お読み頂ければ、光栄です。(尚、本文はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません)
〇 市民病院を追い出された院長 (カルテNo.1)
「なっ、なっ、なんだーこの写真は、院長と婦長じゃねーかよ……」
早朝訪問、八時半の出来事であった。私は、医局前の掲示板に、院長と病棟婦長と思われる男女二人が、モテルの入り口の門をまさに潜ろうとしているキャビネ版の写真が貼られているのを発見したのだ。
院長は、○○大学医学部卒業で長年、院長職にあって、その権力は院内はもちろん、地元医師会のドクター間でも、さらに取引卸からも恐れられていた。全てがワンマンの病院経営者である。
長い間、市民病院は赤字に転じたことがない。多くの公立病院は赤字経営に苦慮している。行政の会計から、補助を受けて経営を維持している公立病院が多いのである。この対策として、地方でも独立行政法人化へという動きが出てきている。ある県では、県立の3病院を総務省から許可を得て、独立行政法人○○県立病院機構として設立している。その意味では、市の財政に多大な貢献をしてきた院長の手腕は評価できるものであった。
その院長に事件が起った―。
その日、私は、早朝訪問で医局と部長室前の「立ちんぼ」を予定していた。「立ちんぼ」とは病院の管理棟のローカで「○○製薬です。おはようございます」とドクターに挨拶をすることである。「医局」での「立ちんぼ」は呼び名が違う。それは「壁の花」という。
この「立ちんぼ」はちょっとしたコツがいる。製品名をPRしてもいいドクターと、挨拶のみで終わるドクターがいるのだ。これを間違ったら大変なことになる。「うるせー」と怒鳴られて、暫く部長室の出入り禁止を申し渡されることになるのだ。
私はいつもの癖で、ローカの医局前の掲示板を見た。医局の行事、学会・研究会の案内が掲示されている壁である。そこに事件のスタートがあった。ちょうど朝、8時半の出来事である。掲示板に貼ってあるスナップ写真を見つけたのだ。誰かがふざけて貼ったのであろうと思った。
MRは冷静である。だからといって、病院の掲示板から、掲示物を勝手に取り除くことは許されない。私は見て見ぬふりを決め込んだ。
写真を分析すると、夜、フラッシュを焚いて撮影したものと思われる。撮影された本人たちは、気付いているようにも見える。私は、そそくさとその場を立ち去った。そして今朝の「立ちんぼ」は終わることに決めた。短い間に様々なことを考えた。時間とともに、どんどん怖くなっていくのが分かった。
この事は、上司に報告しないことにした。何のメリットもない。あの上司は、かえって面白おかしく噂を広げるに違いない。
その後、暫くして、院長の悲しい運命を聞くことになった。
私は、院内の情報をリークしてくれる三人のドクターを掴まえていた。そして、その中の一人から、あの日の朝から起こった全てのストーリーを聞く事ができたのである。
内容はこうだ。掲示板に貼られた写真の件は、午前中に院長の耳に入った。不思議な話だが、すぐには取り除かれなかったという。その後、緊急の医局会が開催された。院長は怒髪冠を衝くがごとく激怒した。犯人は誰かと脅し、絶対に許さないと大声を張り上げた。いくら怒鳴っても、医局員がそんな事をするはずがない。矛先は労働組合に向けられた。結果的にそれがよくなかった。
写真は真実を物語っている。今度は、院内、倫理委員会の長としての立場が問われた。ここまで来るといくらワンマン院長といえども、味方は誰もいない。自分で蒔いた種である。結局、一ヶ月の間に辞職に追い込まれたのである。
その後、三ヶ月ほど過ぎた平日の夜遅く、銀座通りという歓楽街で、院長らしき酔っ払いとすれ違った。千鳥足で、唇からの涎にネオンサインが映っている。そして、それが汚い顎鬚までつたっているのが一瞬で分かった。
暫くして、院長が近くの個人病院の副院長に迎えられ、臨床の現場に復帰したことを聞いた。そして、今でもあの時の犯人を捜しているというのだ-。
この院長のように、ワンマンという経営手法は、結局、最後に一人の男になってしまうことなのであろうか……。