MRのいいお話

MRのカルテ (No.13)

医療ライターの三浦秀一郎です。MRのいいお話を連載します。お読み頂ければ、光栄です。(尚、本文はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません)


〇 トイレの神様  (カルテNo.13)

 M公立総合病院を担当しているMRの佐々木は、今、随行しているエリアマネージャーの加藤に、病院対策の遅れを繰り返し繰り返し指摘され、とうとうしびれを切らした加藤は、進捗把握目的から同行を指示したのであった。なかなか採用とならないAという製剤がターゲットである。

 上司のマネージャー加藤の言い方は、ねちねちと周りを固めてから攻めてくるもっともいやらしいタイプの人間である。課員の全員からも嫌われている。不思議にも、そのことを本人は知ってはいるが、変える考えはないようだ。

 ある飲み会の席で「皆の評価はおれにかかっている……」と発言したことがあった。あきれた言い方である。皆は、その後、特別の行事以外はこの上司との飲み会は断るようになっていった。暗黙のうちに成立したルールである。

 そのマネージャーと今日は、対策遅れのM病院訪問となったのである。

 MRの担当領域内の販売計画(戦略)の立案と活動の展開には、業界で実際に仕事をしてみないと体験できない驚きのツールがいくつも存在する。

 その一つとして、ターゲットの分析に不可欠である医療機関情報と医師情報がある。そこに登場してくるのがDCF(Doctor Computer File)である。

 DCFとは1972年、株式会社アルトマーク社が日本全国の医師情報と医療機関情報を収載した『データ全国医師医療施設コンピュータファイル(DCF)』のことである。「共同利用共同メンテナンス」を思想としている。

 そのデータベースの項目は、医師名・勤務先・役職・自宅住所・自宅電話番号・卒業校・卒年・生年月日・出身県・国家試験合格年・加入学会・医師会加入有無等であり、別のデータベース(DAFI)との組み合わせによっては、論文発表内容・掲載雑誌名・関連記載医薬品・対象疾病分類名・論文抄録名等で当該医師の研究履歴を把握することが可能である。

 さらに各企業は、SFA(Sales Force Automation)と組み合わせて、正確性とスピード感を保持しながら、MR環境の構築を維持しているのである。当然のことながら、大手の医薬品企業の財力からすれば、必要経費としての認識はごく普通のことで、営業部門がこれらのツールを如何に有効に活用するかにかかっているのである。

 エリアマネージャーの加藤との病院訪問が終わりに近づいてきた。採用に関係するキードクターには全て面談が終了した。採用申請に至っていない原因がなんとなく明確になってきた。もうひと押しであることが分かった。

「佐々木くん、ちょっと外来の待合室でお話しようか……」

 とマネージャーの加藤が言った。しかし、その前にトイレに行きたいというのだ。MRの佐々木も我慢していたので、いわゆる『上司との連れション』ということになった。

「あの副院長がガンだな。うちの製品を理解してくれていないな―。お前のやり方が悪いんだ。採用にならなければ、評価は最低にするぞ―。それが俺の特権だからな―」

 便器に向かっての連れションの間に、上司のマネージャーは佐々木にとんでもない口調で詰り始めた。途中で止まりそうになるのもこらえて、佐々木は便器に集中した。心の中で「二度と、こいつとの飲み会はしないぞ―」と再度、固い決心をした。

 外来の待合室で予定通り、マネージャー加藤の説教が始まった。課員全員が経験している辛い時間である。反論は一切許されない一方的なきつい説教である。

 するとマネージャー加藤の肩越しに、先ほどのトイレから例の副院長が出てきたのだ。佐々木は、心臓がこのまま止まってしまうのではないかと感じるほどのショックを受けた。幸いにもマネージャーには見えない。

『俺のMR人生も終わったな……』と思い、後日、出入り禁止の指示が出ることを予測した。MRにとって、担当病院の出入り禁止は、特別な事情でもない限り、致命的な汚点となってしまうのだ。

 マネージャーはまだ、懇々と説教をぶっている。何もかもがいやになった。すべてを投げ出したい気分になってきた。

 二日ほど経って、薬剤部から急用との連絡が入り、リース車を飛ばした。MRの佐々木はもう覚悟を決めていた。あのM公立総合病院の出入り禁止は間違いない。そして300万/月度の実績もパーとなってしまうだろう。

 予想通り、薬剤部からは「すぐに副院長室に行ってください―」との指示である。覚悟は決めていたが、足の震えが止まらない。逃げ出したい衝動に駆られる。そして、あの上司との出会いの運命を悔やんだ。

 副院長室のドアを二度ノックした。中から、「おー、入っていいよ……」と何かしら明るい返事が返ってきた。逆に更に緊張して、心臓は早鐘を打っている。血圧は、180以上になっているはずである。

「おー、忙しいところ呼び出してごめんよ。これを薬剤部に提出してくれないか。次回の薬事審議会にあげるよ。薬剤部に直接、私から渡されたと言いなさい―。そうすれば、薬剤部長は分かっているはずだから……」

 佐々木は何がどうなっているのか理解が出来ない。そして、副院長の目をじっと見つめた。みるみる間に涙が零れ落ちるのが分かった。そこには神様がいたのだ。副院長は涙ながらの佐々木に対して何も言わず、ただ笑顔をふりまいている。そんな長い時間ではなかった。しかし、佐々木にはもう時間の概念は失せていた。

「さあー、早く行きなさい……」

 佐々木は、全く声が出ない―。副院長に退出の挨拶をしたのかさえも記憶が飛んでいた。

 次回の薬事審議会には間違いなく、A製剤が申請された。異論を唱えるドクターは一人としていなかったという。

 あの病院には、トイレの神様がいたのだ。