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兵庫県知事選と観察力
兵庫県知事選についての中田敦彦のyoutube大学を拝見して、物事に対する観察力について考えさせられるところがあり初投稿です。
兵庫県知事選の背景についての詳細は、同youtubeを参照いただくとして、この後は、投稿者本人(以降 私)の感想を記載します。
youtubeを見る前の、兵庫県知事選についての私のすごく解像度の荒い見解は、「前兵庫県知事はパワハラしたのに反省もせず、堂々として変なやつ」「メンタル強いな」だった。
YouTubeでは、前兵庫県知事の行動に対して、新たな解釈の余地のある情報が示されていた。この情報の信憑性について、私は判断を保留とするが、示された情報を信じて判断をした場合、私の過去の見解が一変する情報だった。
「著書:観察力の鍛え方」
ここで、私は「観察力の鍛え方(著:佐渡島庸平)」において、言及されていた内容を思い出した。
同書籍では、観察力において「判断を保留する力」が重要と言及されていた。
本件に対しての私の最初の感想を振り返り、「判断を保留する力」が自分には足りていたのかという点を考えさせられた。
同著からもう一点、本件と絡めて、自分に振り返りたいと思った点に"ディスクリプション"という観察のスキルがある。
ディスクリプションとは、芸術界隈の用語で、芸術作品を判断を保留してありのままを見る活動を指す。人は感想を思ったり、何かを判断してしまうと観察をやめてしまう。そのため、観察を止めるような判断を保留して、ありのままを詳細に見ることで、対象に対しての視点(仮説)を作っていくことができる。と同著では説明されていた。
今思うと、もし私が同報道に対して、ディスクリプションができていたとしたら、「前兵庫県知事はパワハラしたのに反省もせず、堂々として変なやつ」という主観的な判断を下さなかったかも知れない。"パワハラという報道がある"という事実(報道がある事実はパワハラがあるという事実とイコールではない)と"パワハラという報道があるが堂々としている"という事実から仮説を立てて、情報を探しにいくことができたのかも知れないと考えている。
「古畑任三郎と兵庫県知事選」
また、私は同時に書籍:問のデザインでも御公明な安齋裕樹さんが観察力について下記の言及をしていたことを思い出した。(発言はうる覚えなので一言一句正しくはないです。)
「観察力には二種類存在する。「いること(being)」としての観察力と「すること(doing)」としての観察力があるのではないか? 」
「beingの観察力は、"自身のアイデンティティに基づいて、いついかなる時もとってしまう態度"」
「doingの観察力は、"状況は課題、明確な目的に基づいて対象を客観的かつ組織的に解剖する技"」
「古畑任三郎という作品において、主人公は優れた観察力を披露している。「容疑者がいるところには必ず不自然な点がある」という任三郎自身のアイデンティティとしての観察の態度(beingの観察力)を持っている。」
これを本件に対してのあるべき態度(beingの観察力)に照らし合わせると、
「報道の一次情報が後からひっくり返されるような場合においては、必ず不自然な点がある」となるのではないかと考えた。
「前兵庫県知事はパワハラしたのに反省もせず、堂々として変なやつ」
というのは、感想として判断してしまうと"不自然"ではなくなってしまうが、
判断を保留し、「"不自然"には何か理由がある可能性がある」と捉えて観察し続けることで、新しい情報に対しての観察力を持ち続けられるのではないだろうか
「蛇足」
テレビを始め各所で、「SNSは利用者の好みに最適化されるようなアルゴリズムが入ってるから、情報が偏る」という論調を目にする。
SNSにその傾向があることを否定しないが、テレビやその他のメディアも資本主義というアルゴリズムに従って情報を選んでいるという点では大差がないと思った。