天から落ちる涙
「催涙雨(さいるいう)」という言葉がある。
七夕の日に降る雨のことを指す。
巷には「織姫と牽牛が一年に一度しか会えないために流す涙」なんて言説が流れているけど、僕はその解釈には懐疑的だ。
だって、年に一度だけ会える相手を目の前にしながら、その相手を想って泣く必要があるか?嬉し涙という解釈も出来なくはないけど、会えないことが理由で涙を流すのなら、年に一度会える日よりも、会えない364日にずっと泣いている方が自然ではないか。
そもそも、七夕を恋人同士のラブロマンスと捉えている人が多いようだが、その時点で誤解がある。そういう人達には、なぜ彼らが年に一度しか会えないのか考えたことがあるのかと問いたい。
あれは元来「結婚した途端にイチャイチャして仕事をしなくなって天帝の怒りを買った夫婦が、罰として引き離されて労役に就くことになり、可哀想だから年に一度だけ会うことを許された」というロマンの欠片も無い話だ。
羽衣を隠した話や、百人一首で知られるカササギの橋の話は、後世になって付け足された創作に過ぎない。
更に、現代の日本に伝わる七夕の伝承は、各種の神話・民話や民俗風習との習合を経て、機織りの祭りや、死者の供養、雨乞いの儀式など、様々な意味合いを内包するようになり、既に原形を留めていない。
そんなわけで、現代日本人が好みそうなストーリーの入り込む余地が幾らでもある状態だ。だからこそ、「催涙雨」という言葉に上述のような意味を持たせたがるのかも知れないけど。
その経緯から、成立があまりに不確かなので、僕はこの言葉に「七夕の日に降る雨」以外の意味を含ませて用いる気になれないし、実際にこの言葉を必要とする場面に遭遇したことがない。
如何にも、noteでポエムを執筆する際に使ってみたくなるようなロマンチックな印象を受ける言葉ではあるが、こういうのは意味も知らずに使うと火傷する羽目になる。もし貴方が本当に「催涙雨」という言葉を美しく使いこなしたいと考えるなら、古代中華の文献を漁って、七夕の歴史を探ることからお勧めしたい。
僕が思うに、現代のように識字率が高くなく、正確に速く大衆に行き渡るメディアも存在しなかった時代、単なる恋物語とそれにまつわる言葉が、そこまで広く知れ渡っていたとは考えにくいのだ。
まして、「空」「星」「雨」という自然現象に注目していたのなら、やはり生活に密接に関わっていたのではないだろうか。雨乞いの尊さを伝える物語であったり、暦を知るために星を観察する知恵が必要だったとか。
小学校の図書室で読んだ「漫画でわかる日本の行事」みたいな本で、七夕と雨の関係について説明した話を今でも覚えている。
天の川の両岸に立つ牽牛と織姫が会うために近付いていくと川幅が狭まり、溢れた天の川の水(=星)が雨粒になって地上に降り注ぐから、二人が会えるように祈りを地上から捧げて雨乞いとした、といった内容だった。
当然これも後世の創作だし(或いは、その漫画家の創作かも知れない)、出所の確証もない曖昧な話であることに変わりない。だけど僕は、ストレートに恋物語に寄せるよりも、こういう世俗的で日常生活に直結する俗物的な話の中に微かに情緒を忍ばせていることの方が、余程ロマンを感じる。
という内容を、好きな女の子に話したら僕の涙雨が降った七夕の思い出。