Colore del sole
「最高に美味いの作りますよ!任せてください!」
若き料理人の卵は不敵に笑った。
今から15年ほど前のことだ。
行きつけのダイニングバーがあった。些細な偶然から通い始めて、気づけば毎週末必ずそこに行くようになり、気の良いスタッフや居合わせた常連客と共に、朝まで飲み明かした。
僕より2,3歳下の雇われ店長と、学生を中心とした数名のアルバイトスタッフで回していた(オーナーは営業に口を出さない)。バイトは定着しないですぐに辞めてしまう子も多かったが、そんな中でレギュラーとも呼ぶべきバイトが2人居た。彼は、その内の1人だ。
ここのスタッフは基本的に皆バーテンダー(見習い)として採用されているが、店長がフードメニューに力を入れていたこともあり、バイトは皆、料理の修業もさせられていた。定番のおつまみメニューは勿論、パスタや、ご飯ものといったメニューを一通り仕込まれる。
その彼は料理を作るのが元から趣味だったと公言するだけあって、彼の出す品は本当に客からの評価が高かった。
当初はメニュー表の中からきっちり選んで注文していた僕だけど、徐々に図々しくなって、アレンジをお願いしたり、メニューに書いていない品を頼むようになった。しかも、物凄くアバウトに「肉使ったやつ」とか「ホワイトソース風で何か」とか、自分が逆の立場だったら「ええかげんにせえ」とフライパンを投げつけたくなってしまうような注文の仕方だ。そんな雑な注文にも、時にヒアリングを交え、時に「ホントに聞いてた?」と逆に確認したくなるスピーディさで、しっかり期待に応えてくれた。
いつのことだったか、混雑の捌けた明け方閉店間際にパスタを注文したところ、麺が在庫切れで作れないということがあった。だけど常連さんが旅行のお土産に差し入れてくれた素麺があるからと、それを使って冷製の洋風サラダ麺を作ってくれた。その臨機応変なアイディアと手際の良さに感心した記憶がある。
そうそう。
この店のカウンターには、スタッフや常連客が持ち込んだ謎のカードゲームやボードゲームが多数置いてあって、僕らは、酒を片手にそれらのゲームに興じていた。そして、互いの好きなカクテルを1杯、ゲームの勝敗に賭けるのが常だった。
彼は勝負師気質で駆け引きに強く、たびたび客を負かしては、勝利の美酒をゲットしていた。僕も散々負かされた口だ。負け分を取り戻そうと躍起になったものの、返り討ちにあって5連敗したことが忘れられない。
「あ、じゃあ英さん、そんな何杯も悪いんで1杯で良いっす。けど、超高いの飲んで良いっすか?」
「おう、飲め飲め!何でも好きに飲みやがれ!」
「あざっす!」
彼はそう言って「サイレントサード」というカクテルを飲み始めた。スコッチウイスキーにホワイトキュラソーとレモンを混ぜたカクテル。ウイスキーの芳醇で奥深い香りを持ちながら、柑橘の爽やかな酸味によって重さを感じさせない上に、意外にも柔らかい口当たりだ。ベースのスコッチをブランデーに変えた場合は「サイドカー」という有名なカクテルになる。ウイスキーをカクテルに使用する場合、大抵は価格設定の低い銘柄を使用するのだが、この時はショットで頼んでも2000円以上する高い銘柄を用いた。「そういう飲み方をするウイスキーじゃない」と店長は苦笑いしていた。
「いやー、めちゃめちゃ美味いっす!なんなら飲んでも良いっすよ」
「俺の金だ!」
そう言ってグラスを奪い取り、ひと口含んだところであまりの美味しさに衝撃を受けた。敗北の味がした。
「またお願いしやーす♪」
そんな生意気な口を叩いていても、可愛い奴だと思ったものだ。彼は竹を割ったような実直でサッパリした性格で、接客態度の評判も良く、常連客から寵愛されていた。
知り合って2年ほど経った頃、料理修業でイタリアに留学するので退職すると打ち明けられた。帰国後のことはノープランだけど、おそらく東京には戻らないという。
料理をしている時の彼が本当に楽しそうだったから、いつかそんな別れがあるんじゃないかという気はしていた。彼が最初からコック志望だったのか、途中から料理の道を志したのか、僕の記憶が定かではないのだけど。
そうして迎えた、店で彼と会うことのできる最後の日。
適度な空腹を感じた僕は、いつものようにカウンター越しに彼を呼んで、パスタ料理をリクエストした。
「英さんに作るのも最後ですよ。何にしますか?」
「じゃあイタリアだからトマト」
「どんな風にします?」
「なんか、スープっぽいの。あと、大盛り」
「ちなみに次、何飲みます?」
料理と合わせてカクテルを作ってもらうことは良くあるが、これは逆のケースで、皿を出すタイミングで飲んでいるカクテルに合わせた料理を作ってくれるということだ。おそらく、このパスタを注文して完成する頃、今グラスの半分程まで飲んだジントニックが空になって、次のカクテルを飲み始めたぐらいになるだろうと予想した。
「カミカゼにしようかな」
それは当時、一番お気に入りだったカクテルの名だ。ウォッカとホワイトキュラソーとライムからなり、ライムが効いてキリッとした味わいになっている。店によってスタイルに幅があるのが特徴で、この店では「スピリタス」というアルコール96度の世界最強ウォッカを使って、クラッシュアイスを詰めたロックグラスで提供する。完成状態でアルコールが40度あるものの、ライムの爽快感とクラッシュアイスの清涼感とホワイトキュラソーの微かな甘みで、すんなりと飲めてしまう仕上がりだ。
「最後まで雑な注文だけど良い?」
「オッケーです!最高に美味いの作りますよ!任せてください!」
若き料理人の卵は不敵に笑った。
待つ間にカミカゼを注文し、グラスに軽く口を付けたところで、約束の品が提供されてきた。最高のタイミングだ。
器には麺が小高く盛られ、その周りは、目に鮮やかな朱色のスープが満ちていた。それは、海から出現した太陽を思わせた。陽炎のように立ち上る湯気の中には、トマトとチーズとガーリックの爆弾のような香気と、仄かに感じるハーブのアクセント。これから大海に漕ぎ出す彼の野心が、皿の上に体現したような品だった。
口に含む前から美味しさが伝わってきた。フォークを持つ手が逸り、思わず掻き込んでいた。カクテルとの相性も良かった。トマトとチーズの旨みを損なうことなく、臭みを出すこともなく、酒と料理の双方の特徴をしっかり感じられるバランスだった。
これから長らく彼の料理を食べられなくなってしまう、或いは最後になってしまうかも知れない、という心配など何処へやら。一切の躊躇いもなく、あっという間に平らげてしまった。留学中、壁にぶつかることもあるに違いないが、彼の陽のエネルギーがあればきっと大丈夫だろうと確信できた。
「ごちそうさま。めちゃめちゃ美味しかったよ」
「あざっす」
「修業頑張ってね」
「はい!行ってきます!」
考えてみれば、修業に行く前のことなのだから、料理人としては半人前だったわけで。でも、このパスタが、自分にとってはどんな高級レストランで提供された料理よりも美味しく、一番記憶に残っている。それはきっと、「未来への希望」とか「可能性」という一瞬の煌めきが結実した料理だったからだ、と今になって思う。
その数年後、修業を終えて帰国した彼は、関西で料理人として活躍しているらしい。いつか、あの時感じた可能性の答えとなる料理を食べさせてもらうために、会いに行くつもりだ。
また、あの頃みたいに雑な注文をして困らせてやろう。
その時、彼はどんな顔をするかな。
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